疏水トンネル扉の謎 琵琶湖疏水探訪~その3~

 

 

 

 

前回は、琵琶湖第1疏水(以降、疏水)の鹿関橋から、第1トンネル東口を望む場所までのリポートをお伝えした。

 

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3回目の今回は、この第1トンネル東口(下の地図⑪)にもっと近づいて、装飾が施されているという坑門(トンネルの入り口)や、取り付けられている扉を間近でみてみたい。

 

 

 

 

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扁額が彩るトンネルの坑門

滋賀県大津市側にある第1トンネル東口  地図⑩から南西方向を撮影

  

 

 

琵琶湖疏水が竣工した当時は、大津から蹴上(けあげ)まで3つのトンネルがあった(後から諸羽トンネルが作られたので現在は4つ)。その中で一番琵琶湖寄りにあるのが、全長2436mの第1トンネルだ。長等山(ながらやま)を貫くことから長等山トンネルとも呼ばれている。

 

1890年(明治23年)琵琶湖第1疏水完成時には、第1・第2・第3の3つのトンネルがあった
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3つのトンネルの坑門にはそれぞれ異なる装飾が施されており、その格調高さが訪れる者の目を楽しませる。 

 

第1トンネル東口(地図⑪)

 

 

坑門のデザインに趣向が凝らされているだけでなく、坑口の上部には扁額(へんがく)と呼ばれる文字の描かれた横長の額が埋め込まれている。

第1トンネル東口の扁額は、「気象萬千(きしょうばんせん)」。疏水建設当時の初代内閣総理大臣であった伊藤博文によるもので、「様々に変化する風光は素晴らしい」と四季折々の姿を見せる疏水を称えている。

扁額には当時の国政を左右するような政治家や識者の揮毫(きごう:毛筆の言葉)が使われており、ここからも当時の国家級プロジェクトであることがうかがえる。 

 

扁額(黄矢印)の上には設計技師の名前が刻まれている(赤矢印)

 

琵琶湖疏水の扁額は有名で、扁額のみにフォーカスした記事も多くあるので、詳しくはそちらをご覧いただきたい。

歴史ある扁額も素晴らしいと思うのだが、古い土木構造物に関心の高い自分としては、扁額の上に刻まれた文章もぜひ知っていただきたい。

上の写真の赤矢印の部分、写真では経年劣化によりわかりにくいが、矢印の先に「S」という文字が見えないだろうか。この場所に2行で刻まれている文章は以下の通りだ。

 

SAKURO TANABE DR ENG ENGINEER-IN-CHIEF
WORK COMMENCED AUGUST 1885 COMPLETED APRIL 1890

(主任技師の田邉朔郎工学博士によって、1885年8月~1890年4月の工事で完成したものである)

 

疏水で最も難工事だった第1トンネルの坑門にこうして刻まれた文字は、明治時代における日本人の気概を現代の私たちに伝えている気がしてならない。 

 

 

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明治29年の大水害と鋼鉄の扉

現在は閉じることがないと言われている第1トンネル東口の扉

 

第1トンネル東口には赤さびた鋼鉄の扉がついている。トンネルに扉が付いているのは、この場所だけだ。「琵琶湖に最も近い」第1トンネルの入り口にこうした扉が付けられているのは、1896年(明治29年)に多発した集中豪雨が深く関係している。

端的に言えば、「多雨による想定外の増水で疏水流域の溢水による被害を防ぐため、扉を付けて水が流れないようにしました。以上」ということなのだが、事はそう単純な話ではない。

この地域の歴史的水害について研究・発表された白木正俊氏の論文に、新聞記事から丹念に拾い上げた当時の状況が詳しく書かれているので、それを参考に過去・現在の写真ベースで状況を整理してみたいと思う。

 

  

☔集中豪雨が続いた1896年(明治29年)

1896年(明治29年)は全国的に水害が発生した年だった。7月から9月にかけて、木曽三川(木曽川・長良川・揖斐川)や西日本一帯、関東の荒川や江戸川などの流域で多くの被害がでた。

琵琶湖一帯も同様に同年7月と9月に集中豪雨が続き、琵琶湖および周辺河川の水位が大きく上昇した。

 

☔8/30~8/31 大津閘門を閉鎖

台風による暴風雨で琵琶湖の水位が刻々と上昇し、疏水に流れ込む水量も増大した。このため、大津閘門を閉鎖して、流入する水を堰き止めた。一方、山科運河(第1トンネルを抜けた先の山科地区を流れる疏水)や蹴上インクラインの先にある南禅寺船溜には土砂が侵入し、蹴上から鴨川までの数多くの電柱が倒壊し送電不能となる被害が発生した。

 

☔9/7~9/9 大津閘門を再度閉鎖

連日の集中豪雨により琵琶湖から大量の水が大津閘門に押し寄せる事態となった。8日には、京都市の水利事務所長が技師や工夫150人余りを率いて大津閘門まで出向き、再度閘門を閉鎖している。

しかし琵琶湖からの水勢は収まらず、閘門の中島まで浸水する事態に至る。

下の写真は、撮影年次は確定できなかったが、おそらく疏水が完成してからそれほど年数が経っていないと思われる。閘門の右側にある多角形の小さな建物が建っている場所が「中島」で、水がこの上まで押し寄せたということだろう。

 

大津閘門  田邉家資料より

 

☔9/10~9/11 第1トンネル封鎖

当時の山科村の村長が「万一此水の閘門にて防ぎきれぬときは、山科は全村水底葬らるゝに至るべし」と現場で訴えたということからも、緊迫した様子が伝わってくる。

閘門閉鎖だけでは疏水流域への被害を抑えきれないと判断したのか、10日にはさらに150名の人夫を増員し、第1トンネル東口に鉄扉をはめ込んだ。

この段階ではめこんだ鉄扉が現在のものと最初思ったのだが、実は違った。非常事態における、あくまでも一時的な鉄扉を取り付けたのだろう。その証拠に、鉄扉で閉鎖しきれない部分には厚さ2寸ほどの板で閉め切り、さらに土俵を積み重ねたと聞く。

トンネルの扉だけでなく、水流による大津閘門の破壊を防ぐ必要もあった。閘門の中島にも土俵を積み、中島の両側の門に水が流れるようにした。下の写真は現在の大津閘門だが、上の記述によれば中央の中島は土俵で高さをかせぎ溢水しないようにして、両サイドに水を逃がして防御したということだ。

  

2020年撮影の大津閘門。右側は制水門

 

 

☔改修工事で豪雨対策を万全に

第1トンネルの封鎖は2週間ほど続き、琵琶湖の水位が平時にもどったところで通水が再開した。

豪雨対策として、すぐにも改修工事が望まれたが、水利利用者にとって再度の通水停止は死活問題ともなる。当初の工期は90日が提案されたものの、調整に調整を重ね、最終的には予算をアップし12日間(1897/5/15~5/26)という工期で改修工事が行われた。

大津閘門は、当初木製だったが、おそらくはこのタイミングで鉄扉に変更されたと思われる。改修前(2つ前の写真と同じ)と改修後と思われる2枚の写真を見比べていただきたい。

 

改修後の大津閘門

 

この2つの写真の解像度では、木製から鉄製に扉が変更になったことまでは目視ではわからない。が、4枚の扉を開け閉めする門の両サイドにある器具(上の写真の緑丸)の形状が明らかに異なっていることがわかる。

大津閘門は鉄扉に交換しただけでなく、中島の土砂を掘り起こしコンクリートを詰めるなど、より堅牢性を高める改修が行われた。

 

一方、第1トンネルは、4000貫(15トン)の鋼鉄の扉がはめこまれた。1人でも開閉できる装置もあわせて設置された。

また非常時に扉を閉めた場合でも、疏水に平時と同じ流量の水を流せるように、扉面上部に4個の水門(幅2尺5寸、縦1尺5寸)を設けたと伝えられている。ただ、現在の扉には、その上部の4個の穴というか水門らしきものが見当たらない。

扉がさらに別の機会に取り換えられたのか、あるいは4個の水門を扉につける予定だったが実際に変更になってしまったのか、そのあたりの詳細は不明である。

   

京都市上下水道局より

 

琵琶湖疏水の建設案が浮上した際、滋賀県や大津町では、琵琶湖渇水時に疏水に水が流れることでさらなる渇水という利水上の問題を懸念していた。ところが、琵琶湖増水時に、第1トンネルを閉鎖されてしまう(結果、大津周辺で水害被害が発生)という治水上の問題が発生するというのは想定外だった。

 

写真を見ての通り、(途中取り換えられていないとすれば)120年以上経過した鋼鉄の扉はすでに本来の役目を果たすには形骸化しており、その存在は歴史の証人として疏水の流れをみつめている。

 

 

 

※参考資料
白木正俊氏、「1896 年の水害と琵琶湖疏水」『京都歴史災害研究 第20号(2019)1~11』 

★本記事の内容は、2020年6月に訪問したときのものです。

 

 

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