雲上の楽園と呼ばれた松尾鉱山跡地 今も残る東北随一の廃墟群

 

 

 

 

岩手県北西部の松尾村(現、八幡平市)には、東洋一と言われた硫黄鉱山があった。最盛期の1950年代には、年間およそ8万トンの硫黄を生産し、国内の硫黄生産量の約3割を占めていた。

松尾鉱山は八幡平(はちまんたい)の中腹、標高1000m付近にあり、最も町が賑わっていた時期には鉱山で働く労働者および家族など約15000人が暮らしていたという。

冒頭の写真は、1951年(昭和26年)に鉱山の社員寮として建設された「緑ヶ丘アパート」の、今は昔の姿である。

 

 

 

 

 

隆盛を極めた松尾鉱山だったが、1960年代に入ると石油精製過程で得られる安価な回収硫黄に市場を奪われ、業績が悪化。1971年(昭和46年)に採掘終了となった。

もともと鉱山のために造られた町は、閉山とともに人の気配が消え、今や朽ちるに任せたアパート群が残るばかり。

東北一ともいわれる廃墟は、さながら北の軍艦島といった様相で、遠目に眺めるだけでもその存在感の強さに圧倒される。

 

南向きが3棟、西向きが8棟立ち並ぶ

 

ちなみに、下は実際に人が居住していたころの画像だ。当時としては最先端の水洗トイレやスチーム暖房を備えていたという。

昭和26年完成という戦後間もない時期であり、「生活に必要な物資、設備などお話にならないくらい立派なものだった」とかつての作業員の方の証言からも、途方もなく大きなプロジェクトであったことがうかがえる。

 

岩手県公式動画チャンネル「つなぐ、未来へ [3](松尾鉱山)」より

 

 

 

ここで位置関係を地図で確認しておこう。

 

八幡平アスピーテライン(4月中旬から11月上旬ごろまで通行可能)のすぐ南側に隣接して、松尾鉱山の廃墟群がある。

緑ヶ丘アパートの西には貯泥ダム(下の画像中央にある大きな池のように見える場所)があり、さらに西に松尾鉱山がある。

 

緑ヶ丘アパートは黄矢印方向から撮影
Google 航空写真より

 

緑ヶ丘アパートには近づくことができないが、地図の黄点線丸で囲んだ建物は道の脇に建っているので、近くまで歩いて行くことにする。

 

 

西方向に続く道路を歩いて行く。正面奥に見えるのが松尾鉱山だ

 

 

確かなことはわからないが、こちらの建物は1つだけ離れて建っており、何かの事務棟だったのかもしれない。

 

 

時が経てば外階段も砂のように崩れてしまうのだ

 

 

 

窓枠から若木が枝を伸ばす様は、どこかアートな作品のようだ

 

 

 

コンクリートが剥がれ落ち、鉄筋がむき出しになっている

 

 

 

聞こえるのは風の音と鳥のさえずりばかり

 

 

当時を撮影した下の画像には、この事務棟のような建物も映り込んでいる(中央の煙突の右上)。

学校や病院、映画館まであり、活気にあふれた鉱山の町は「雲上の楽園」と呼ばれていた。

 

岩手県公式動画チャンネル「つなぐ、未来へ [3](松尾鉱山)」より

 

 

 

松尾鉱山とそこに今も残る廃墟群については、以前から知ってはいた。

が、ひとつ大きな勘違いをしていたことに今回気が付いた。この一帯にあるすべての施設が松尾鉱山の遺構=廃墟だと思っていたのだが、中和処理施設は現役に稼働している施設だったのだ。いやはやお恥ずかしい限りである。

先に載せたGoogle航空写真の中央下にある中和処理施設を、西側から撮影したものが下の画像だ。施設の奥、画像の左上に緑ヶ丘アパートが映り込んでいるのがおわかりになるだろうか。

 

岩手県公式動画チャンネル「つなぐ、未来へ [3](松尾鉱山)」より

 

鉱山を閉山したあとも、鉱山からは抗廃水と呼ばれる地下資源を採掘する場所から地下水が流出している。松尾鉱山からは強酸性の抗廃水が大量に流れ出ているため、下流域の河川の水質保持のため今も中和処理が欠かせないのだ。

上の画像の施設は、暫定的に作られた中和施設の後、1981年(昭和56年)に新中和処理施設として完成したもので、24時間365日稼働し続けているという事実に驚く。

 

 

人口的な構造物がその役目を終えた後、例えば同じ岩手県の一関市にある祭畤(まつるべ)大橋のように、森に飲み込まれるように自然に還っていく。

松尾鉱山の廃墟群も、春夏秋冬巡る季節を繰り返しながら、同じように自然に還っていくのだろうか。その答えを知るには、まだ長い時間がかかりそうだ。

 

 

 

 

※参考資料

You Tube 岩手県公式チャンネル 「つなぐ、未来へ [3](松尾鉱山)」

 

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