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前回は、琵琶湖疏水のざっくりとした概要をお伝えした。
2回目の今回は、琵琶湖から琵琶湖第1疏水(以降、疏水)への取水口から、疏水工事で最初に手掛けた第1トンネル入り口までをリポートする。
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まずは三井寺駅へ
今回リポートする場所と、撮影場所をナンバリングしたものを示すのが、以下の地図だ。まずは京阪電車で三井寺(みいでら)駅に向かう(地図番号①)。
※地図の縮尺によっては橋の名前が表示されません。地図番号をクリックすれば橋の名前が表示されます
三井寺駅に到着すると、天気は雨。小雨だが、この日は一日雨が降りそうな様子だ。
駅の北西側、道路1本隔ててすぐに疏水がある。
三井寺と次の兵営前(現在の大津市役所前)の区間が開業したのは、1927年(昭和2年)。踏切横の疏水を渡る鉄橋は、当時のものから架け替えられたのかどうかは、わからなかった(見た目はリベットの嵐なので古い鉄橋だと思われるが)。
琵琶湖から取水する
疏水を左手に見ながら琵琶湖に向かって道を歩いて行く。水は琵琶湖から蹴上に向けて流れていくので、琵琶湖側が上流、蹴上側が下流となる。つまり、今、疏水の左岸を歩いていることになる。
短い距離の間に、疏水に架かる短い橋が何本もある。
踏切から75mほど歩くと、疏水を斜めに横切る大津絵橋という橋がある(「大津絵」は大津発祥の民画。この斜めの橋は「大津絵の道」という散策路にある)。大津絵橋から琵琶湖方面を見てみると、水路の先には琵琶湖の湖面が広がっている(上の写真)。
さらに琵琶湖方向に歩き、琵琶湖に最も近い場所にある新三保ヶ崎橋(地図④)までやってきた。ここで疏水の幅は大きく広がり、琵琶湖の水を取水している。ここが、疏水のスタート地点である。
1953年(昭和28年)に建設された揚水機場は、琵琶湖の水位が下がった時に、琵琶湖の水をポンプで汲み上げて疏水に水を流す役目を担う。クリーム色の建物の真下にある赤いレンガの3連アーチが取水口で、逆側の同じアーチ型の吐水口(2つ前の写真)から水路に水を流している。
舟の通行を可能にした大津閘門
ここからは、取水口から蹴上まで疏水の流れを追っていく。いよいよ琵琶湖疏水探訪のスタートである。三保ヶ崎橋からは、長等山を貫くトンネルに向かって静かに流れていく疏水がよく見える。水面には、雨粒の波紋が幾重にも広がっていた。
今度は疏水を右手に見ながら今来た道を引き返す。踏切を通過するとほどなく、北国橋の交差点だ。
北国橋(地図⑥)からは、大津閘門(こうもん)全体の様子がよく見える。
疏水の水面水位は、琵琶湖の増減する水位よりも低くなるように設計されていた。これは、疏水に一定量の水を流せるようにするためだ。しかし、流しすぎてもまずいので水量調整の設備が必要となる。現在でも、こうした目的には「堰」などが設けられるのだが、堰があると舟が通れない。
琵琶湖疏水は京都に琵琶湖の水を送り届けるというだけでなく、当時は運河としての役割も担っていた。
このため、堰の代わりに閘門が設けられたのである。閘門は、水位差のある水路で舟を通すための設備のことだ。(こちらのサイトに閘門の仕組みをわかりやすくアニメーションにしたものが掲載されている)
下の写真、上流側から間近に見える白い門がある。写真では見えにくいがその奥にもう一つ、下流側にも白い門がある。その2つの門の間が閘室という場所だ。閘室に舟を入れて水位を調整し、舟の位置を上下させる仕組みとなっている。
大津閘門は1889年(明治22年)に完成した、日本人の設計・施工による日本最古の洋式閘門と言われている。現在は見ての通りの白く塗装された鉄扉だが、完成当時は木製(檜)の扉だった。
下の写真は、疏水が完成してから20年後のもの。両側にあるレンガや石積みは現在のものとほぼ同じであることがわかる。扉の様子が不明瞭で、木製なのか鉄製に変わったのかこの写真でははっきりしない。が、いろいろと調べた事実から、このときの扉はすでに鉄製にかわっていたように推測される。実は、当地を襲った水害なども絡む話なのだが、これについては次の記事で紹介したい。
扉の件はさておき、モノクロの写真をみると舟が盛んに行き交い、大津閘門の周囲は人の活気であふれている。
閘門を通り過ぎ、下流側から振り返って閘門をみると、先ほど説明した2つ目の門が見える。
第1トンネルの曳舟道
大津閘門のすぐ下流側には、鹿関(かせき or かせぎ)橋がある。1928年(昭和3年)に造られた古い橋で、やや距離はあるが第1トンネル東口(入口)を真正面から眺められるスポットとなっている。
両側に桜の木が続く鹿関橋からの眺めは、桜の咲く時期にはそれは素晴らしいものと聞くが、雨にそぼ濡れる新緑の時期も美しい。琵琶湖の取水口からトンネル入り口までを、「大津運河」と呼ぶこともあるようだ。
上の写真を見ると、疏水の両脇に人が十分歩けるほどの道があることがわかる。これは曳舟道(ひきふねみち)といい、舟を牽引するための道である。
話が横道にそれるが、浮世絵にも江戸時代の曳舟道が描かれたものがある。
ちなみに、さきほど紹介した鹿関橋の案内板に掲示されていた写真、小さくて不明瞭だが、当時の様子がほんの少しだが垣間見える。ぎっしりと並ぶ舟の様子が、琵琶湖疏水の運河としての役割の大きさを物語ってる。
次回は、第1トンネル東口のみに取り付けられている扉の謎について取り上げたい。
★本記事の内容は、2020年6月に訪問したときのものです。