広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶしまなみ海道付近には、明治27年(1894年)に初点灯した灯台が集中している。しかもその9つのうち、8つが現役の灯台として稼働しているという、なかなかホットな場所なのだ。
2023年から2024年にかけて、これを全部見に行くことを目指した。結果は次のとおり。
・百貫島灯台:上陸または近づくための定期航路がないので断念
・長太夫礁灯標(島ではなく岩礁に立つ“灯標”のなので、厳密には灯台ではないが、ここでは“9灯台”に含めている):上陸できないので断念(近くからの撮影は可能と思われる)
・大久野島灯台:現在稼働しているのは1992(平成4)年に改築された2代目。ただ、初代も別の場所で保存されており、そっちも見学した
・鮴埼灯台(廃止):行けたのは登り口の手前までで、先は閉鎖されており、現地までは行けなかった。ただ資料写真やレンズは保存されていて、見ることができた
・残り5つの大浜埼灯台、小佐木島灯台、高根島灯台、中ノ鼻灯台、大下島灯台:到達した
「完全制覇」とは言えないが、現状でできる範囲のことはやった、という感じだ。
どれも形はわりと似ている。石造りであまり高くなく、周りを円形の外壁が囲んでいる。だが、同じ形ではない。共通の目的で同時期に作られても、それぞれ意匠を工夫し、個性を備えている。“効率”を求めて画一化しているわけではない。明治の灯台の美しさはそういうところにあると思う。
光源はLEDに置き換えられているものも多いが、当初、それほど大きなレンズは使われていなかったようだ。船が近くを通ることが多いので、灯塔の高さや光の強さはあまり求められなかっただろう。
現地まで行くのに多少苦労があるのは、小佐木島灯台(船の便が少ない)と高根島灯台(クルマの運転にビビる箇所がある)ぐらいだ。急な上り下りの連続、迷い道や藪のかき分け、長時間の徒歩など、到達までに苦労するところはないので、この6灯台の制覇はそれほど難しくないだろう。
9灯台の同時設置は日本の産業発展のあかし
これら9灯台が一斉に建てられたのは、燧灘(ひうちなだ)(播磨灘を経て関西方面)と伊予灘(九州方面)とを行き来する多くの船が、この航路を通るようになったからだ。
大浜埼灯台の近くにあった案内板(設置者不明)の説明を引用する。
瀬戸内海を航行する船舶は、潮流が一番速く危険が多い来島海峡を通る必要がありました。このため、ひうち灘から布刈瀬戸、三原瀬戸を通過して周防灘にでれば、比較的潮流の影響をうけないで航行することができます。
この航路のため、明治27年5月、百貫島灯台、大浜埼灯台、長太夫灯標、小佐木島灯台、高根島灯台、大久野島灯台、鮴埼灯台、中ノ鼻灯台、大下島灯台等がほぼ同時に建設され点灯しました。
航路に一定の呼び名がついていないようだが、「布刈(めかり)瀬戸航路」「三原瀬戸航路」「中瀬戸航路」などと記述されていることが多い。東から布刈瀬戸、三原瀬戸、中瀬戸、大下瀬戸を通るためだ。
9つの灯台に対しては「花の明治27年組」という言い回しもネット上で見た。
なぜ明治27年(ごろ)だったのかは、いくつかの説明がある。九州の石炭を大阪の工業地帯に運ぶ需要が増えた(木江ふれあい郷土資料館の展示パネル)、山陽鉄道が尾道まで開通し、尾道港が大きな集積地になった(同)、日本郵船がインドのボンベイと神戸の間に開設した定期航路と深くかかわっている(Web記事「大下島灯台を探訪」)など。
いずれにせよ、明治中期に日本の産業が大きく発展したことの現れだ。現在も稼働を続ける「9灯台」は、それをはっきりと示す大事な“文化遺産”と言えるだろう。
来島海峡には灯台密度日本一?の馬島に4灯台
地図をもう一度みてほしい。
布刈瀬戸/三原瀬戸航路は、いくつもの島をこまごまとぬうように通っている。一方、今治と大島の間の来島(くるしま)海峡を通る方が、航路としてはシンプルになる。
明治時代の航路が来島海峡を避けたのは、その場所の潮流が激しいからだ。動力の弱い当時の船は、来島海峡を通るのに苦労しただろう。
現在では多くの船が来島海峡を通っている。しかし操船を誤ったことによる事故は今でも起こっている。それほどの“難所”であるということだ。それは現地で海面を見ても、雰囲気はつかめる。
このため、来島海峡には灯台や灯標がたくさんある。おそらくほとんどが昭和になってから建てられたものだろう(中渡島にある中渡島灯台だけは、初点灯が明治33年)。
なかでも注目は、今治と大島の間にある馬島(うましま)だ。南北1.1km、東西700mという小さい島に灯台が4つもある。おそらく「灯台密度」では日本一なのではないか? さすが“瀬戸内海の難所の一つ”だ。
馬島の4つの灯台についてはこちら。