自慢するわけじゃないが、私は歴史的な出来事に対する素養が極めて薄い。だから「浦賀」と聞いても、ペリー来航ぐらいしか思いつかない。浦賀水道の正確な場所も、今回初めて知った。
江戸時代の水運が盛んになるにつれ、深い入り江のある浦賀は重要な場所となっていった。同時に、夜間に船が浦賀水道を安全に通過できる対策も必要になった。
江戸幕府が、三浦半島東端の燈明崎(とうみょうざき)に和式灯台「燈明堂」を設置したのは、1648年(慶安元年)。3代将軍徳川家光の時代である。
その後、台風や津波など幾度もの被害を受けるたびに修繕・再建を繰り返し、1872年(明治5年)に役割を終えるまで、燈明堂は浦賀の海を照らし続けた。
冒頭の浮世絵は、葛飾北斎が浦賀の風景を描いた「相州浦賀」である。「千絵の海」という漁の風景をテーマとした全10図の版画シリーズの1つで、1833年頃に出版されたものだ。
中央に描かれているのが、燈明堂と思われる。美しい青い海を背景に、小さいながらも存在感は抜群だ。
時期は少し遅れるが、歌川広重も浦賀の風景を描いている。
「山海見立相撲」(さんかいみたてずもう)とは、各地の山と海を力士相撲に見立て描かれたシリーズもので、右上のタイトルが行司の軍配に模したデザインとなっている。
広重の相模浦賀は、燈明崎を北側から眺めるような構図になっているが、やはり中央に燈明堂が描かれており、こちらは浦賀に停泊する船の多さが当時の活況を伝えている。
歌川広重は江戸後期に活躍した浮世絵師で没年が1858年であり、同年頃に山海見立相撲が出版されていることから、最晩年に描かれた老熟した趣を感じる一枚だ。
実は、広重は相模浦賀の20年近く前に、1840~1842年頃「日本湊尽」というシリーズで同じ浦賀の風景を描いている。タイトルは北斎と同じ「相州浦賀」で、雪が舞う港町の集落を写した風景画である。
これも中央に、言われなければわからないような、白く雪をまとった燈明台の姿がある。
燈明堂は廃止された後、長い年月の中で土台の石垣部分を残して塔の部分はなくなってしまっていたが、1989年(平成元年)に廃止時の姿で復元された。
燈明堂が廃止になったのは、1866年(慶応2年)に江戸協約が結ばれ、その関連で観音崎灯台が建設されたからだ。
その話はまた別記事で、紹介する。
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