野付埼灯台の“地の果て”感は、吹き荒れる風でさらに強く

 

 

 

 

ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

    

到達:2022年9月
難易度:■■■□(中級)

 野付埼(のつけざき)灯台の周りには本当になにもない。一面に広がる草原(くさはら)があるだけだ。しかもそのときは強い風が吹き荒れていて、“地の果て”にひとりさみしく立っている姿がとてもけなげに見えた。

 そもそも、野付半島(根元部分は北海道標津町、先端部分は別海町)は不思議な場所だ。一般的なイメージの「半島」とは形が違ううえに、高いところがほとんどない。それは、野付半島が「砂嘴(さし)」だからだ。

 

野付半島

  

 

 砂嘴とは、川から運ばれた砂や礫(れき)が、海に細長く堆積した地形のことで、三保の松原(静岡県静岡市)がその一例。野付半島は日本で一番大きな砂嘴なのだ。

 砂嘴は硬い岩でできているのではないので、1000年というような(地理的な観点では)わりと短い年月で形を変えやすい。野付半島ができたのは約3000年前だという。

 

 

 野付埼灯台は、そういう野付半島の東端にある。残念ながら「日本最東端の灯台」の地位は、根室半島の納沙布岬灯台(北海道根室市)に取られているが。

  

 

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道道の突端からは徒歩で

 か細い野付半島を縦断する唯一の道路である道道950号の突端にクルマをとめる(終点と言いたいがこっちが起点)。この先にもじゃり道があるが一般車は通行禁止になっている。

 

 

 

 

 灯台は200mぐらい先で、すでに見えている。灯台より先までずっと延びている電線と電柱は、大自然に対する人間のか弱い抵抗を表しているようだ。

  

 

 

 地名としては「野付埼」ではなく「竜神崎」だそうな。

 

 

 

 数分歩いて灯台に着く。

 

  

 

 周りには草しか見えない。標高が低いので、はるか眼下に波立つ海面を見る切り立った崖、というようなものもない。アクセスも比較的楽なので、「灯台クエスト」的な魅力度は少ないが、どこまでも平坦な土地なので仕方がない。

 

 

 

 写真ではわかりにくいのだが、この日は朝から強風が吹き荒れていて、歩くのにも苦労するほどだった。強い風のなか、じっと立つシンプルな形の灯台と小屋。このけなげな姿が、灯台の本来の役割を思い出させてくれる。

 このように“地の果て”を感じさせる野付半島からは想像がつかないが、江戸時代には人でにぎわっていたという。以下、河﨑秋子の小説「東陬遺事(とうすういじ)」から少し引用する。

 

 寛政11年、東蝦夷地を仮直轄地とした幕府はここ野付に通行屋を設け、蝦夷地本土とクナシリ島を往来する船舶を管理、把握するようになった。

 またここは鰊や鮭に恵まれた海域であり、漁場として、更には魚滓(うおかす)という江戸時代後期において重要な役割を占めた商品の生産地として賑わっていた。

集英社文庫『鯨の岬』収録

 

   

 野付埼灯台よりずっと先、砂嘴の突端(方向としては西)には「野付通行屋跡遺跡」がある。野付半島には13世紀から18世紀のころのアイヌの遺跡もある。はるか昔、このような場所で暮らしていた人がいる、というのはちょっと心を打つ。

 

 

 

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地形が変わりやすい砂嘴の宿命

 風が強いので、半島の外側(北東方向)はかなり荒れている。

 

 

 

 一方、内側(南西方向)はこの風にもかかわらずあまり波が高くない。この穏やかで浅い海と湿地帯が、さまざまな動物と植物を抱える豊かな自然を生み出している。

 

 

 

 野付半島は年間平均1.5cmというけっこうな速さで地盤沈下しているそうだ。

 また、半島の一番細い部分は10mに満たないぐらいで、コンクリートの堤がなければ、砂が削られて島になってしまいそうだ。100年といった短い期間で姿が変わっていくのが砂嘴の運命だ。

 土地の変形によって、野付埼灯台もいつかは移動させなければならなくなるかもしれない。それとも、そのころには灯台というものが必要とされなくなっているのか?

 

  

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