1963年(昭和38年)に公開された映画「天国と地獄」を観た。あまり大きな声で言えないが、私にとってはじめての黒沢作品である。きっかけは、映画の中で重要なモチーフとして列車と鉄橋が登場することを知ったからだ。
映画の中では、顔を知っている俳優さんも出演している。みな恐ろしく若い。それはそうだ、なにしろ58年前の映画である(2021年現在)。黒沢明監督も、主演の三船敏郎さん他、多くの主要人物がすでに鬼籍だ。捜査担当主任役の仲代達矢さんはご存命だが、いまおいくつなのか?と調べると御年88歳である。ということは、映画公開時は30歳前後で、逆にその年齢に見えない当時の風格に驚く。
ざっとしたあらすじは、こうだ。大手の靴会社の重役である権藤(三船敏郎)の一人息子が誘拐された。ところが誘拐犯人は間違えて、権藤のお抱え運転手の息子を誘拐してしまったのだ。会社の権力争いや狡猾な犯人との攻防の末、身代金の受け渡しのため特急こだま2号に乗車することになる・・という社会派サスペンス的な内容だ。
5分30秒とかなり長いが、YouTubeでレトロな予告編を見ることができる。
(動画がはじまって15秒後ぐらいに大きな電話の呼び出し音が流れるので音量にはご注意ください)
ロケ地は小田原市の酒匂川鉄橋
物語の肝となるのが身代金受け渡しの方法だ。犯人から特急こだま2号に乗車するように指示があったものの、列車の窓は開かないため現金を窓から投げ下ろすことはできない。どうやって犯人は現金を受け取るつもりなのか、捜査員たちは頭を悩ます。ところが、多くの人が気が付かない盲点があったのだ。その詳細は映画をみていただくことにして、現金は酒匂川鉄橋から投げ落とされ犯人の手に渡る。映画「天国と地獄」における酒匂川鉄橋は、実に重要な位置付けなのだ。
地図A Google Map より
酒匂川は神奈川県小田原市の中央を流れる二級河川で、相模湾から内陸に約1.7kmのところに3つの橋梁が並列して架かっている(地図A)。下流側に在来線が2本、上流側に新幹線の路線、いずれも複線である。
映画の公開は1963年なので、撮影時期はそれより前になる。ゆえに、1964年に開通した東海道新幹線(東京-大阪間)の鉄橋と、1979年に新規に架けられた最も下流にある鉄橋は、映画に登場しない。現在は貨物線として利用されている真ん中にある鉄橋のみが存在した時代である。
横浜をでた列車が通過する小田原駅に到着する直前、酒匂川を渡る。上の画像は鉄橋に進入時、運転席から進行方向をみたものだ。
映画に登場する酒匂川橋梁の歴史は古い。橋長は423.35m、8径間の下路式ワーレントラスで1920年(大正9年)に竣工している。
完成した3年後には関東大震災が発生したが、ほとんど被害を受けることもなく現在も100年橋梁としてその姿を残している。
列車が鉄橋を通過した後、最後尾から鉄橋がある方向を見たのが上の画像だ。酒匂川橋梁の橋脚が映りこんでいるがおわかりになるだろうか。画像が粗いのでわかりにくいが、左端の真っ黒な人の頭の右横に橋脚が見える。最初はレンガかと思ったが、資料によれば切石積みとのこと。この橋脚が現在も残っているかは確認できなかった。
懐かしいボンネットスタイル
身代金の受け渡しに使われた特急こだま2号は、東京駅を14時半に出発し、横浜、熱海、静岡、浜松に停車。終点の大阪には21時に到着する。6時間半で東京・大阪を結ぶ列車はビジネス特急として人気があったという。なにより、運転席を高く据えたボンネットスタイルは特別な存在感があった。
映画の中で、この特急が走り抜ける姿を見たときどこか懐かしく感じたのだが、それには理由がある。1970年代に入ってから上野・金沢間の「白山」や上越線経由の「はくたか」などにも、このボンネットスタイルの特急が運用されており、子供の頃に幾度となく祖父母の家にいくために利用していた時の記憶があるからだ。
特急こだまは、空調設備を完備することで客車を固定窓とした。「こだま」という名前や、列車の窓が開かないことから、天国と地獄のなかで使われた列車は新幹線と記憶違いしている場合もあるようだが、冒頭でも述べたように新幹線の開通は映画公開後である。
ただし、鉄橋に関しては架橋はされていないが、橋脚などは建設されていた。こちらの写真などをみると、1961年には新幹線の橋脚の一部が出来上がっていることを確認できる。
実は一瞬ではあるのだが、映画の中にもこの新幹線の橋脚が映りこむシーンがある。下の画像をみてほしい。
下流側の河原から酒匂川橋梁を映しているシーンで、黒っぽい酒匂川橋梁の橋脚の向こうに、白っぽい橋脚が見える(上の画像、黄矢印)。これが新幹線の橋脚である。
映画やドラマなど映像としてのメディアには、世相を写し取る記録としての役割もあるのだな・・と、自分自身も年齢を重ねてあらためて気が付く。
最後に、下の画像は、捜査員が権藤の会社の工場に聞き込みをしているシーンだ。東野英治郎さんをみると、水戸のご老公にしか見えず、最後に印籠がでてくるのでは?とドキドキしたのはここだけの話。