明治の大和路をゆく幻の鉄道「大仏線」後編
観音寺橋台の隙間から姿を見せる大和路快速

 
 
 
明治の時代、わずか9年という短命で終わった「大仏線」跡を訪ね歩く旅。前編ではJR奈良駅前をスタートし、県道44号線を北に進んで遺構を見てきた。後編の今回は、井関川を越えて県道44号線と別れ、京都の里山へ続く急坂を上り始めたところからスタートしよう。

 
 
 
奈良駅から加茂駅までの大仏線跡をナンバリングしたルートマップはコチラ↓

 
 
  
里山の中を歩くときは、ウォークマンなどの音楽は聴かない。見知らぬ場所での安全確保もあるが、風が樹々を揺らす音や、鳥や動物たちの鳴き声を聞き逃すのがもったいないからだ。

さわさわと葉のこすれあう音が輪唱のように追いかけてくる

 
 
道に覆いかぶさるように樹々の枝がアーチを作り、少し空気をひんやりとさせている。
 

 
 

大仏線が9年で廃線になったのは

ルートマップ⑦ 城山台公園(大仏鉄道公園)

 
一転して視界が開けると、そこにはこんもりとした丘の城山台公園があった。芝生が整備された広い公園は、すぐ近くに大仏線の遺構があることから、「大仏鉄道公園」と愛称がついている。きれいなトイレもあり、探検ウォークの休憩場所としては外せない場所である。
 

 
 
 
丘状になった公園の高い場所まで歩くと、大仏鉄道の誕生から廃線までの流れを簡潔にまとめた説明看板がある。下の写真をクリックすると拡大できるので、興味のある方はご一読いただきたい。
 
大仏線が、短い期間で廃線になった理由はざっくりと2つある。明治の半ば以降、各鉄道会社が鉄道網を拡充していく競争の中で、結果として大仏線は「一時的なつなぎ路線」としての立ち位置になってしまったこと。そして加茂駅から奈良駅を最短ルートでつないだため、途中の急勾配がネックになったことだ。
 

☆クリックで拡大

 
 
奈良周辺における各鉄道会社の当時の勢力争いは単純な話ではないが、下の経路変遷図で簡単に説明しよう。

奈良方面への路線延線を狙う関西鉄道は、既存路線の加茂駅から大阪鉄道奈良駅への乗り入れを計画した。しかし諸般の事情ですぐに実現できず、まず1898年(明治31年)に奈良駅近くまで新線を敷設し、終点を大仏駅とした。これが大仏線である。
 
そして翌年1899年(明治32年)に奈良駅まで路線を伸ばす。関西鉄道はその後大阪鉄道を合併し、次第に奈良駅に人の流れが移っていく。さらに1905年に奈良鉄道と合併。加茂駅~木津駅~奈良駅の平坦な路線が作られたことで、1907年(明治40年)に大仏鉄道は廃線となった。木津川市の資料によれば、1900年(明治33年)には年間の乗降者数は4万人を超えていたが、廃線の前年にはその1/10以下に激減していた。

ウィキペディア(Wikipedia)「大仏駅」ページ 経路変遷図より

 
ちなみに、下の図は標高差を色別で表した地図だ。大仏線のルートに比べ、木津駅を経由する迂回ルートは平坦な場所を選んで敷設されていることがよくわかる。大仏線よりも距離は伸びたが、スピードを落とさなくてすむので、結果的に奈良駅までの到着時間にそれほど差はでなかったようだ。
 

茶色が濃いほど、標高が高い。オレンジの丸は大仏線のルートを表す
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土地開発の間で残された遺構

 
 公園のすぐ北東に大仏線の橋と隧道が残されている。最初にGoogleマップでその場所をみたときは、3~4本の道路が走り、ストリートビューをみても全体像を把握できなかった(私の空間認知能力が低いせいかもしれないけど)。

現地を実際に訪れてみて、やっと何がどうなっているのかが、おおむね把握できた。ちなみに、上のGoogleマップで表示される梶ヶ谷(かじがたに)隧道の位置は微妙にずれている。

まず、下の衛星写真(公園横マップ)で説明すると③の矢印で示されている細い道が、廃線跡である。そして①と②の広い道路と同じ高さにある。
一方2本の道路の間にある道(⑥と⑦がある)は、少し低い場所にある。V字の谷底にある感じだ(Vというほど深くはないが)。

大仏線の2つの遺構は、いずれも廃線跡の道の下にあり、実際にくぐり抜けることができる。私がたどったルートは、①→②→③と歩き、③の矢印方向の道は通らずに④から⑤に迂回して、隧道を通って⑥→⑦→⑧→⑨と一回りしたことになる(下の衛星写真に描かれている矢印はその方向に進んだという意味ではなく、その方向を撮影したことを示す矢印である)。

公園横マップ ④から南東の道は下り坂、⑧→⑨は上り坂である  Google衛星写真より

 
 
では上の衛星写真のナンバリング順に紹介していこう。

城山台公園のトイレ付近にある道を北東に歩くとすぐに、「赤橋」と呼ばれている煉瓦造りの橋が見えてくる。
 

公園横マップ①  ☆クリックして拡大

 
 
続いて見えてくるのが、梶ヶ谷隧道。一般的に遺構は晩秋から早春までの草木が枯れているほうが全容を把握しやすいが、萌える新緑とのコラボも魅力的だ。

公園横マップ② 梶ヶ谷隧道のすぐ横に、立体交差するための新しいコンクリート製のトンネルもできている ☆クリックで拡大

 
 
 
①と②の道路には、しっかりとした金網のフェンスが張り巡らされていて、案内板が掲げられている。

大仏線跡には、こうした農道や水路を通すための隧道や橋がいくつも残されている。
 

 
 
列車が通過していたであろう道。周囲の住宅化が進んでいないので、機関車が通り抜ける様子を想像できる。
 

公園横マップ③

 
 
梶ヶ谷隧道に近づくために、坂道を下っていく。公園横マップ④の場所には、農道や私有地に立ち入らないように道順を示した看板が立っていた。
 

公園横マップ④ 看板が小さいので拡大して合成した。こんな大きな看板が立ってるわけじゃない ☆クリックで拡大

 
 
④の場所から坂を下り、コの字型に歩くと梶ヶ谷隧道の前にでる。
 

 
 
 
4重アーチがかわいい梶ヶ谷隧道。隧道の煉瓦について語りだすと長くなるので、それはまた別の機会にするとして、とにかく古い時代の煉瓦でできた土木建造物を見るとテンションが上がる。
 

公園横マップ⑤  ☆クリックで拡大

 
 
隧道の中を通り、逆側から梶ヶ谷隧道を振り返る。隧道の向こう側に見える緑がいいよね。
 

公園横マップ⑥   ☆クリックで拡大

 
 
低い場所の道路を南西に歩き、赤橋の前までくる。ちょうど通りかかった軽自動車が、橋を通り抜けるショットが撮れた。車との対比が、赤橋のスマートなたたずまいを際立たせる感じ。
 
おもしろいなぁと思うのは、大仏線ではこうした橋や隧道のスタイルがどれも微妙に違って、それでいてみな独特の雰囲気を醸し出しているところだ。こういうのってあまりないような気がする(そんなにたくさん廃線跡を見てきたわけじゃないので、感覚的な話になるけれど)。
  

公園横マップ⑦  アイボリーの色合いがまた赤橋に似合う  ☆クリックで拡大

 
橋の隅は、直方体に切り出した花崗岩の長辺と短辺を組む算木(さんぎ)積みで、橋の強度を高めている。
 

橋台部分の煉瓦は、イギリス積み。これも強度の高い積み方である  ☆クリックで拡大

  
 
赤橋をくぐりぬけ、反対側から振り返る。

公園横マップ⑧   ☆クリックで拡大

 
 
 
公園横マップ⑧の位置から細い道を上り、⑨の位置まで戻ってくる。これで遺構を中心に時計回りに一周したことになる。

公園横マップ⑨

 
 
 

大仏線の人気スポット 鹿背山橋台

 

赤橋と梶ヶ谷隧道を堪能した後、再び廃線跡をたどり、東方向に向けて歩き出す。道は途中から府道324号に合流。合流後、すぐに分かれ道が現れる(下の地図①の場所)。

次に目指すのは鹿背山(かせやま)橋台なので、右方向に進む。府道324号は左の道なので、ここでお別れだ。とはいっても、最終的には別ルートからまた府道324号に合流するので、「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ」的な感じだろうか(全然違う?)。

上の地図①の場所

 
 
かろうじて舗装されている道はますます細く、この先どこにどう通じているのか見当がつかない。事前に地図をみて歩いているので、見当がつかないということはないんだけど、一人で歩いていると少し心配になってくる。
 

どこへ続いているのか
あたりはますます薄暗く

 
 
 
そんなことをぶつぶつ思っていると、拍子抜けするようなタイミングで鹿背山橋台が目の前にぽんっと現れる。フォトジェニックなので、大仏線の遺構のなかでも人気が高いというのもうなずける。ちょっとカンボジアのベンメリア遺跡のような雰囲気もあるな(興味のある方は「ベンメリア遺跡」で画像検索してみて)。
 

花崗岩で積み上げられた堅牢な橋台  ☆クリックで拡大

 
 

Googleマップにない道をゆく この道でいいのか?

  
 
鹿背山橋台の次は、観音寺(かんおんじ)橋台へ向かう。事前にGoogleマップで調べたときは、鹿背山橋台の前を通る道を東南方向に進み、その後北上することを想定していた。周辺は山の中だし遠回りはよくあることである。(上の地図)

ところが、鹿背山橋台をでてすぐ、分かれ道に突き当たってしまった(上の地図の②)。こんな道はGoogleマップには載っていない。しかも、当初歩こうと思っていた右の道は通行止めだと書いてある。
肉眼で見ても写真で見ても、右の道のほうがよさそうにみえるが、仕方ない。ここは素直に左の道(②の矢印方向)を進むことにした。ダイジョブなのか。
 

正面にある小さな案内板には、右の道が通行止めと書かれている  ☆クリックで拡大

 
 
 
ついに舗装されていない道になってしまった。あとから写真でみると、自然豊かで美しいと思うけど、地図にない知らない道を歩くのは、度胸がいる。サイトのタイトルが「探検ウォーク」のくせに 笑。

☆クリックで拡大

 
途中から動画を撮影したので、お時間ある方は早送りでご覧あれ。

 
 
幸いなことに、左側の道は観音寺小橋台へ通じていた。想定外の最短ルートを歩くことができたわけだ。Googleの衛星写真で確認すると、おそらく赤丸の部分を歩いてきたようである(下の地図)。
 
鹿背山橋台と観音寺小橋台をむすぶ位置関係や通ってきた道の雰囲気から、最初は、廃線跡を歩けたのかと考えた(少し小躍り)。しかし、落ち着いて衛星写真を見てみると、歩いてきたルートの左側に、黒い筋がみえる。「廃線跡はこっちでは?」衛星写真を見れば見るほどそんな気がしてきた。
 

②の分かれ道から実際に歩いたルートが赤丸。廃線跡と思われるルートがオレンジ丸 ☆クリックで拡大 Googleマップ衛星写真より

 
 
検証するために、大仏線が現役だった頃の地図(下の地図左)と現在の地図(下の地図右)を比較すると、オレンジ色の線が大仏線に重なる。つまり、上の地図のオレンジ丸のルートが廃線跡で間違いないようだ。
 

右の地図の赤い線は今回歩いたルートである

 
 
ところで、上の左右の地図を見ていて、もう1つ気が付いたことがある。鹿背山トンネルの位置である。大仏線の資料をいろいろチェックしていて、この鹿背山トンネルのくだりで今一つよくわからないところがあったのが、地図をみて私が大きな勘違い(さらに言うなら地図上にも間違い?がある)をしていことに気が付く。
 
ただこの話をしだすと、後編が一生終わらない気がするので、また別の記事で書くことにする。

 
大仏線の廃線探検ウォークもいよいよ終盤。清々しい勢いで空に伸びる竹の向こうに、観音寺小橋台が見えてきた。

☆クリックで拡大

 
 
 

過去と現在が近づく場所 観音寺橋台

記事冒頭にあるルートマップ⑪の観音寺小橋台

 
 
 

観音寺小橋台からすぐの場所に、観音寺橋台がある。この場所の一番の魅力は、すぐ隣に今も現役の大和路線(関西本線)が通っていることだろう。観音寺小橋台は柵が設置され中に立ち入れないが、こちらは通り抜けが可能だ。

手前が観音寺橋台。奥にみえるのが、大和路線の鉄橋だ  ☆クリックで拡大

 
 
鉄橋の向こうに見える里山の風景が、ピクチャーウィンドウのようだ。
 

大和路線の鉄橋。こちらも年代物だ  ☆クリックで拡大

 
 
振り返り、観音寺橋台をみる。観音寺橋台のほうが、少し背が高い。
 

☆クリックで拡大

 
 

せっかくの機会なので、大和路線の列車が通過するのをしばし待つ。お昼の時間帯は30分に1本、列車が通過する。ええ待ちますとも。

下の動画は30秒ほどだが、実際に列車が通過する様子が映っている。列車が近づいてくるのが目視できないので、音が頼りだ(本記事、冒頭の写真は、通過する瞬間である)。
 

だんだん大和路快速が近づいてくる

 
 
 
観音寺橋台ですっかり力尽きた感があるが、とにかく加茂駅まで歩いていかなければいけない。このまま廃線跡をたどっていければ2kmほどだが、残念ながら歩ける道がないので、南か北方向どちらかの迂回ルートを歩く。今回は、田園風景が広がる北に迂回するルートを歩いた。

北方向に進むと府道324号と交差するので、そのまま東方向に進み加茂駅を目指す。

田植えの時期。農業用水の水が堰き止められていた
途中の踏切で大阪の天王寺駅に向かう大和路快速が通過していった   ☆クリックで拡大

 
 
 
冒頭のルートマップにナンバリングしたように、本当なら煉瓦造りのランプ小屋なども撮影したかったけれど、すっかり疲れて加茂駅までよろよろとたどりつくのがやっとだったので(前日とあわせて30km以上歩いている)、加茂駅前のモニュメントを撮影するだけになってしまった。
 

ルートマップ⑮ 動輪モニュメント ものすごく雑に撮影している 反省

 

以上で、奈良駅から加茂駅まで、大仏線の鉄道遺構を訪ね歩く廃線探検ウォークはおしまいである。
事前に写真などで遺構群を見てはいたが、あらためて煉瓦と花崗岩で作られた橋台・橋が、存在感のあるまま残されていることに驚きと感動を覚えた。はるばる出かけてきた甲斐があった。歩いてよかったなと思う。

ながながお付き合いいただき、ありがとうございました。それではまた別の機会に。

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