荒川放水路を記憶にとどめる赤水門と青水門を間近に【赤水門後編】

 

 

 

前編に引き続いて、後編です。

 

 

後編では、赤水門(旧岩淵水門)を実際に訪ねた際の、現地の様子を写真でお届けする。

新河岸川を渡り、荒川のほとりへ

新志茂橋から新河岸川の下流方向を撮影

 

公共交通機関を利用して赤水門に行く場合、最寄りはJR赤羽駅か東京メトロ南北線の赤羽岩淵駅になる。のんびり歩くと20分ぐらいかかるので、真夏だとキツイ。

新志茂橋までくると、もう一息。橋を渡る途中で、ちらりと顔をだしている青水門が見えた。

  

荒川放水路概要図  荒川知水資料館amoa展示物より転載

 

上の画像、中央下にある橋を今渡っている。このまままっすぐ歩けば、赤水門に到着だ。 

 

当日の荒川はおだやか

5つのゲートがある。奥が1番ゲート、手前が5番ゲート

 

堤防には彼岸花が咲いていた。この前まで真夏だった気がするが、やっと秋が来たという感じ。

 

荒川の上流方向を撮影。河川敷に広がる荒川岩淵関緑地

 

凛々しい青水門

水を受け止める部分の扉体(ひたい)1枚の大きさは、幅20m×高さ16m

 

荒川の土手に近づくと、右手に青水門(岩淵水門)が見えてきた。といっても赤水門から300mほど下流にあるので、やや遠目に眺める感じ。上の青水門は少しズームしたものだ。

赤水門とバトンタッチする形で、1982年(昭和57年)に新設された水門である。

役割の一つが、荒川の洪水時に水門を閉じ墨田川への流入を防ぐことだが、実際に過去5回水門が閉じられている。直近では、令和元年10月に発生した「令和元年東日本台風」の時に閉じられた。水門閉鎖により荒川と隅田川の水位差が5m以上生じ、隅田川の越水による周辺地域への洪水を防いだのだ。

  

岩淵水門(青水門)の構造図
岩淵水門のパンフレット(国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所)より転載

 

水門の上部は散歩道に

荒川・隅田川の右岸側から撮影

 

実際に、赤水門の上を歩いてみる。左右のコンクリートの手すりは、過去の写真で見る限り竣工当時からあったものだろう(改修はされているかもしれないが)。

 

5番ゲート

 

5番ゲートは1960年(昭和35年)に大きく改修されているが、この時に水門が赤く塗り替えられている。その後も保全のため再塗装されているようだが、完成した1924年(大正13年)から100年近くたった今でも、外観からは大きな錆びなどは見えず現役感を漂わせている。

 

リベットが多くみられる

 

通路の先は、今は小島となっている中之島につながっている。

 

水門の歩道部分は約103m

 

下流側には青水門が見える。

 

風もなく静かな川面

 

水門の左岸側には、改修時の銘板がとりつけられていた。

 

手すりはそれなりの経年劣化がみられる

 

癒しの空間 中之島

青野正氏制作『月を射る』 荒川リバーアートコンテスト特賞受賞

 

かつては下の写真のように陸続きだった荒川と隅田川の境にある陸地も、前編で書いた通り今は小島(中之島)として造成され、荒川赤水門緑地として整備されている。

 

青水門が建設される前の赤水門周辺
岩淵水門のパンフレット(国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所)より転載

 

私たちが生まれるはるか以前に、荒川放水路が開削され赤水門が造られた。荒川放水路だった場所には、多くの人々が住まい生活をしていた。

荒川放水路に必要だった土地買収面積は約1088ha・移転戸数は約1300戸にのぼる。国策のために移転を強いられた人々の苦難も忘れてはならないだろう。

新旧2つの水門がこれからも、周辺流域の安全を守る盾となり続けてもらいたいと思う。

 

岩淵水門のパンフレット(国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所)より転載

 

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