「赤水門」設置場所の不思議、ヒントは荒川“放水路”にあった 【赤水門前編】

 

 

 

冒頭の写真は、東京都の荒川にある旧岩淵水門。大正時代に完成した古い水門で、その外観から通称「赤水門」と呼ばれている。

現在はすでに引退し、下流にできた岩淵水門(通称「青水門」)に役目をバトンタッチ。その後も取り壊されることなく、貴重な土木遺構として整備保存されている。

 

 

その場所でいいのか赤水門

荒川放水路概要図  荒川知水資料館amoa展示物より転載

水門の近くには、この地域の治水を詳しく知ることのできる荒川知水資料館amoaがある。館内に掲示されていたパネルには、空から撮影した新旧2つの水門の写真が掲示されていた(上画像)。 

この写真を見て、赤水門の位置に違和感を感じた。すでに引退した赤水門ではあるが、現役の時にこの状態で荒川の水をコントロールできたのだろうか。左手から右方向に赤水門を通らずに、荒川の水がどんどん隅田川に流れ込んでしまうはずだ。

もちろん、そんなはずはない。念のため、古い地図を調べてみると、納得の答えがそこにあった。

 

赤水門を残すため、陸地を小島に

左手が上流。川の水は左から右方向に流れていく 国土地理院の地図より

上の航空写真は、1936年~1942年(昭和11年~17年)のものだ。左から荒川の水が流れ、中央部で荒川放水路(北側)と隅田川(南側)に分流している。赤水門も、写真中央にはっきり写っている。

そして荒川放水路と隅田川の間は、水門のある位置まで陸地となっている。

上の写真と現在の地図を重ね合わせてみると、昔と今との違いがはっきりわかる。

 

国土地理院地図より

青水門建設時に、中央にのびる陸地の先端部分を削ったのには、治水上の理由があったのかもしれない。しかし、それだけなら赤水門も撤去してしまえばよかったし、先端部分の一部を残す必要はなかっただろう。

わざわざ中之島という小島を造ってまで、赤水門を保存するための造成をしたのだと推測される。

それほどまで想いのこもった赤水門というのは、どういった存在だったのか。歴史的な背景を調べてみた。 

 

はじめて知った荒川放水路

無知をさらけ出すようで、本当に恥ずかしいのだが言ってしまおう。私は、荒川は上流から下流まで、ずっと何の疑いもなく荒川だと思っていた。

何言ってんの?と思われるかもしれないが、今回撮影のため訪問した赤水門から下流の荒川が、「荒川放水路」という人工的に開削された河川であることを全く知らなかったのだ。

 

そもそも、荒川放水路という言葉を知らない。もしかしたら学校で習ったのかな?いや、全然覚えがない。手持ちの岩淵水門のパンフレット(国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所)には、『昭和40年の新河川法の施行により、「荒川放水路」の呼称が「荒川」に変更されました』とある。

きっとそのせいだ😊(ということにしておこう)。

 

町を洪水から守るため

時は明治末期にさかのぼる。1910年(明治43年)の8月、長雨が続いていた関東地方に、2つの台風が相次いだ。これにより、荒川(当時の隅田川)・利根川・多摩川などの関東の主要河川が氾濫。後に明治43年の大水害と呼ばれる災害により、関東だけでも家屋全壊・流出が約5000戸、死者・行方不明者が800人を超える大惨事となった。

特に、当時の荒川下流域(現在の隅田川)は、川幅も狭く十分な堤防の高さもなかったことから、洪水被害が頻発し抜本的な対策が求められていた。

こうした背景をもとに、あらたに荒川放水路を造り、増水した水を荒川放水路に流すことで隅田川の洪水を防ぐ施策が打たれた。

1911年(明治44年)、現在の赤水門から東京湾河口まで、全長約22kmにおよぶ大規模な開削工事がスタートしたのである。

 

赤線の部分が人工的に開削された荒川放水路

 

荒川の流れを調整する赤水門

荒川放水路概要図  荒川知水資料館amoa展示物より転載

 

荒川放水路は1911年(明治44年)から1930年(昭和5年)まで、完成まで19年にも及ぶ大工事だった。水路の開削も難工事だったが、水門の建設はこのプロジェクトの中で重要な位置づけだった。

荒川の増水時には水門を閉め、隅田川に水が流れこまないようにする。通常時は荒川の流量の3割程度を隅田川に流入させることで、水質改善の役割も担っていた。

 

赤水門の建設が始まったのは荒川放水路工事着工から数年経った1916年(大正5年)。荒川放水路事業の最高責任者である土木技師:青山士(あきら)が荒川と隅田川を分ける水門の設計を担当した。

パナマ運河の建設にも携わっていた青山は、水門を設置する地盤がパナマ運河と同様に軟弱であることを見抜いていた。そこで、水門の基礎を川底から約20mも掘り、鉄筋コンクリートの枠を埋めて固めたのだ。

 

旧岩淵水門(赤水門)の構造図
岩淵水門のパンフレット(国土交通省関東地方整備局 荒川下流河川事務所)より転載

 

強固な基礎を築いたことにより、水門工事期間中に発生した関東大震災(1923年)による被害も免れることができた。そして、その翌年の1924年(大正13年)に、赤水門は完成したのである。

 

初代の赤水門は今と違う姿で

赤水門には、幅9mの5つのローラーゲートがあり、袖壁部を含めた長さは103mある。当時では珍しい鉄筋コンクリート造りだった。

実は建設当初の赤水門は今とは違う形をしている。

 

竣工当時の赤水門 public domain

上の写真は下流側から撮影されたものなので、トップ画像とゲートの向きが逆だが、左端の5番ゲートが大きく異なっている。

昭和20年代後半からの広域な地盤沈下の影響により、水門の沈下が懸念事項となった。1960年(昭和35年)には、門扉の継ぎ足しや開閉装置の改修が行われ、通船のため5番ゲートが改造された。ゲートの色も赤に塗装され、現在の赤水門となったのだ。

 

上流側から撮影した赤水門。右端が5番ゲート

 

1947年(昭和22年)のカスリーン台風、1958年(昭和33年)の狩野川台風などによる豪雨の際も大いに活躍した赤水門は、1982年(昭和57年)にその役目を終えた。

新しい水門に変わるまでの約60年間、東京の下町を守り続けた赤水門。今も存在感を放ちながら、現役時と同じ場所で荒川の流れを見つめている。

 

★後編は、実際に赤水門を訪問した様子を、写真とともにお伝えします。

 

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事