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ミシガン湖のグランド川河口桟橋に建てられた灯台の話。前回【いまこうなってる編】からの続きです。
建てる場所を間違えたって・・
1830年代後半、グランド川の河口近くのグランドヘイヴン(Grand Haven)は、積み出し港としての重要性が高まり、灯台や桟橋建設の声が高まっていた。
これを受け、本格的な灯台が建設されたのは1839年(次地図の①)。高さ約9mの石造りの灯台だった。ちなみに日本では天保10年、黒船来航14年前の時期である。
せっかく建てた灯台だったが、数年たたないうちに、建てる場所を間違えたかもしれない・・という事態になってきた。ビーチに建てた灯台は、荒れるミシガン湖からの浸食が続き、あわてて防潮堤を建設することになる。
(建てる前にわからなかったんだろうか)
しかし、努力の甲斐なく1852年12月6日に嵐が防潮堤を破壊。12月17日には灯台と管理用の建物も倒壊するに至る。わずか13年で灯台はなくなってしまったのだ。
3年後の1855年、新しい灯台が再び建てられた。最初の灯台があった場所から45mほど離れた背後の崖の上だ(地図②)。塔の高さは約7.3mと高くはないが、崖の上にあるため湖面からは21mほどあり灯台としての高さは十分だったようだ。
この灯台(以降、崖の上の灯台)には、当時の4000ドルをかけて4等のフレネルレンズが設置された。【いまこうなってる編】で紹介した、トリシティ歴史博物館に展示されているあのレンズである。
崖の上の灯台は、1905年まで50年間、グランドヘイヴンの守り神として役目を果たし続けることになる。
どんどん延びる南桟橋
崖の上の灯台が建設されたのち、ミシガン湖の激しい波風による浸食や砂の移動、周辺の沈泥蓄積を抑制するために、護岸の整備と桟橋の建設が始まった。
同時期にデトロイト・ミルウォーキー鉄道の、デトロイトからグランドヘイヴンまでの路線が開業し、ミシガン湖を横断してミルウォーキーにつなぐフェリーを運航し始めたことも、桟橋建設の後押しになったようだ。
本格的に南桟橋の工事が始まったのが、1860年代になってから。まず細かい情報は後にして、建設年と桟橋の長さをみてほしい(次図)。わかりやすくするために南桟橋の長さをフィートで説明するが、最初に287フィート(約87m)だった桟橋は、25年かけて少しずつ長さを延ばし、1893年に現在の1515フィート(約461m)になっている。地道にこつこつやっていったのだ。
標識灯と霧笛小屋とキャットウォークと
延伸した南桟橋の先端に、最初に標識灯(Beacon Light)が設置されたのは1871年。桟橋にあわせて木製のキャットウォークも設置された。
そして4年後の1875年には、標識灯のすぐ後ろに霧笛小屋が設置された。
その後、桟橋はさらに延び、標識灯も霧笛小屋も先端に場所を移動し、キャットウォークも延伸した。
次の古い写真は、正確な撮影年は不明だが、1890年頃の標識灯と霧笛小屋を写したものだ。キャットウォークも標識灯をのせたやぐらも、木製だったことがわかる。
崖の上の灯台から桟橋の灯台へバトンタッチ
南桟橋の全長が現在と同じ1515フィートになったのは1893年頃のこと。これまでと同様に標識灯と霧笛小屋も桟橋先端に移動している。
1905年頃になると、南桟橋にも大きな変化が起こる。
先端にあった標識灯の代わりに、約15mの高さの灯台が設置された。現在の南桟橋にある赤い灯台である。ただし色は白で、場所も今とは違い南桟橋の先端にあった。
この灯台のレンズには、崖の上の灯台から取り外されたフレネルレンズが使われている。崖の上の灯台は役目を終え、1910年には取り壊されたと聞く。
崖の上から桟橋の先端に安全航行の光がバトンタッチされたわけだが、このときに起こった面白いエピソードがある(実際には面白がってる場合ではないのだが)。
周辺を航行する船の船長たちが、このバトンタッチのことを知らず、入港時に大混乱になったというのだ。航路に慣れていた船長たちなので事なきを得たが、そうでなければ座礁していたかもしれないと資料にあった。資料には船長以外はみな知っていた・・とあるのだが、そんなことあるだろうか?ほんとに?
灯台を後方に下げた理由とは
せっかく桟橋の先端に設置した灯台だが、2年後の1907年に約180m後方に設置場所が移動。現在灯台が建つ場所と同じになった。
当時の写真を見ると、灯台はまだ白く、キャットウォークだけでなく桟橋の床も木造であることがわかる。
こちらはキャットウォークから撮影されたもので、臨場感がある。桟橋から、どうだろうか2mぐらいの高さがあるように見えるが、それでも荒れ狂うミシガン湖の天候によっては、キャットウォークを渡るのも命がけということもあったろう。
一方、霧笛小屋のほうも変化があった。小屋西側の屋根を改修し、デッキスペースを追加してその上に灯台(の上部)を設置したのである。
ある資料によると、この霧笛小屋の灯台のレンズも崖の上の灯台から持ってきたもの・・という記述もあったのだが、相当数の資料を読み込んでみたが情報が混とんとしているところも多く、レンズについて正確なところはわからない。
なぜこのような大がかりなことを行ったかという点についてだが、「2つの灯りが船舶を港に直接誘導するための距離灯として機能できるようにするため」ということのようだ。
大変な労力をかけての改修だが、これも灯台を建てる前にわかればよかったのにね・・という気がする。もちろん、やってみたあとに気が付くってことはよくあることだけど。
1921~1922年にはキャットウォークが木製から鋳鉄製に代わり、霧笛小屋の前には船首に似せたコンクリートの構造物が設置された。
下の写真はモノクロなのではっきりとわからないが、灯台の色は白から赤くなり(1917~1918年に赤く塗装されたと記録がある)、キャットウォークも取り換えられている。
上の写真が撮影されたのが、ちょうど今から100年前。霧笛小屋も灯台も、多少の違いはあれど変わらぬ姿でそこにある。
桟橋の途中と先端にある2つの灯台は、先人の努力と試行錯誤の中からたどりついた答えなのだった。
最後に、内部映像も含む約90秒の動画をぜひご覧ください。