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東海道線の小田原から熱海方に2駅先、無人の小さな駅「根府川(ねぶかわ)」がある。
駅に到着したのは冬の午前9時。東向きのホームから太陽の光跡を映す海がよく見えた。
この付近の東海道線は、海から高台に続く急斜面を削り取るように電車が走っている。海面からホームまでがおよそ45m、さらに改札のある駅舎までは5~6mの高低差がある。
関東大震災で駅と橋が流出
跨線橋の階段を上がり、渡り廊下から熱海方を望む。ホームの先端では3線が2線に合流し、その先は線路全体の色合いが微妙に変わっている。そこに鉄橋があるからだ。
その鉄橋が今回の目的地「白糸川橋梁」である。平面の地図で見たときよりも、実際に現地で見たときのほうが「近い」と感じる。その近さ故、根府川駅と白糸川橋梁は運命を共にした苦難の歴史がある。
根府川は、もともとは国府津(こうづ)から熱海までの熱海線に所属する駅だった。開業の翌年に起こった関東大震災により土石流が発生。白糸川橋梁の一部と根府川駅は、ちょうど進入してきた下り列車とともに海に流されてしまった。
当時の記録には「約二里の山奥より土砂岩石の大山津波襲来し、谷底より百尺の高さに在る橋梁を橋下の一部落と共に殆んど埋め尽くした当時の惨状である」(工事画報第1巻第3号)とある。
こうした災害を乗り越え、1925年(大正14年)3月に白糸川橋梁は初代とほぼ同様の形で再建された。
もう1つの根府川駅
根府川駅から白糸川橋梁までは、それほど距離はない。が、高低差があり細い道を曲がりくねっていくので地図は必須。
駅前の道を南西方向に歩いていくと、道が二手に分かれる。橋へは左の坂道を下って行くのだが、このままみちなりに県道を進む。ちょっと見たいものがすぐ先にあるからだ。
先ほどの分岐点から50m少し歩いたところに、バス停があり小さなモニュメントのようなものが建っている。かつてここに、もう1つの「根府川駅」があった。東海道線がこの地を通るずっと前、明治時代に開業した鉄道の駅である。
豆相人車鉄道(ずそうじんしゃてつどう)は、熱海への利便性を高めるため1895年(明治28年)に開業した鉄道で、字のごとく動力は「人」だった。当初は熱海から吉浜までの営業だったが、開業翌年に小田原まで延伸し、おそらく根府川駅もその時期にできたものなのだろう。
小田原から熱海までの25.6km、駕籠(かご)で6時間が、人車鉄道により4時間まで短縮された。1車両6人程度の乗客が乗った小さな車両を2~3人の車夫が押して動かす。それが6両編成で日に6往復していたと聞き驚く。最初は本当に?と思ったのだが、当時のモノクロの写真が残っているので疑いようがない。
国木田独歩の「湯河原ゆき」「湯河原より」には、豆相人車鉄道の描写が登場する。
小田原から先は例の人車鉄道。-中略- 人車へ乗ると最早半分湯河原に着いた気になった。この人車鉄道の目的が熱海、伊豆山、湯河原の如き温泉地にあるので、これに乗れば最早大丈夫という気になるのは温泉行の人々皆同感であろう。 (現代仮名づかいに一部変更)
「湯河原より」国木田独歩
その後、豆相人車鉄道が走っていた路線は紆余曲折の末、関東大震災で大きな被害を受けそのまま廃止となっている。
白糸川橋梁へ
先ほどの分岐点に戻り、急な坂道を下って白糸川橋梁の直下まで行く。赤いトラスとの距離が近いせいか、(当たり前なのだが)遠くから見下ろすよりずっと橋が大きく見える。
白糸川橋梁は大正末期につくられた橋らしく、多くのリベットとレーシングバーが見える。まだまだ現役、重厚感のあるつくりだ。
橋をくぐり抜け、海沿いの国道135号まで来た。順光を浴びて、白糸川橋梁もまた少し違った顔に見える。
あたたかな根府川の海
白糸川橋梁を後にして駅に戻ってきた。
駅舎内の待合室は腰板や木枠の大きな窓など、明治後期から昭和初期にかけて作られた駅舎の特徴がよくあらわれている。古き時代の学校のような雰囲気もある。
根府川駅開業100周年を祝っての写真が壁に展示されていて、こうしたギャラリー的な空間が、この駅にはよく似合う。
壁の隅には、詩人の茨木のり子氏が詠んだ「根府川の海」が掲げられている。少女時代への限りない憧憬と、根府川という場所と相模の海への温かく包み込むような郷愁の情が、この短い詩からあふれ出ている。
関東大震災の後、駅も翌年に再建された。
今もこの根府川の海の沖合には、流されてしまった駅のプラットホームが沈んでいる。
このおだやかで美しい光景が、このままずっと続くことを願いたい。