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今回は、大井川鐡道探訪記の番外編として、大井川と鉄道に関わる今昔物語について紹介する。
水戸黄門で知った大井川
地理的素養も歴史的素養も驚くほど乏しい私でも、大井川が静岡県を流れる川で大変水量が多く、東海道屈指の難所であったことは知っている。ビジュアル的に言えば、冒頭にもあった浮世絵のイメージである。
冒頭の絵は北斎。彼も大井川を描いている。
こちらの豊国のほうは、お大名ご一行の物見遊山的な(実際は違うが)楽しさがあるが、北斎のほうは「津波じゃあるまいか」という荒波を超える川越人足(かわごしにんそく)たちの命がけさが伝わってくる。
大井川にこういったイメージを持つようになった刷り込みは、こどもの頃に再放送で繰り返しみたTVドラマ水戸黄門の影響だ。
すこし検索しただけでも、水戸黄門のタイトルに「大井川」が含まれるものが簡単にヒットする。
雨あがる(水戸黄門 第1部)
陰謀渦巻く大井川―島田― (水戸黄門 第22部)
母子涙の大井川(島田)(水戸黄門第28部)
昭和44年(1969年)に放送された第1部の7話では「大井川の川留めでごった返す島田の宿に格さん(横内正)瓜二つの男が現れた。実はその男、金を盗み追われていたのだが…。」というエピソードリストがある。この話を見たかどうかは定かではないが、大井川の川留めでいろんなトラブルが起きるというのはお約束で、繰り返し似たような話を視聴することで、私の大井川のイメージが出来上がっていた。
当時、大井川の両岸にあった東海道の島田宿・金谷宿も、この時代劇で知りえた知識だったように思う。
江戸や家康が隠居した駿府などの防衛のため、橋を架けず渡し船も禁止とし、人足による川越しが行われていたことは広く知られている。幕末期にはこうした川越人足が1200名ほどいたと言われているが、明治9年(1876年)に大井川に橋が架けられ、失業した人足たちが後に金谷などで茶畑に携わり、静岡の名産となっていったということだ。
鉄道が必要だった2つの理由
ここで、大井川が流れる地勢を地図で確認しておこう。
大井川は南アルプスの間ノ岳を水源とし、駿河湾に流れ下る延長168kmの一級河川である。
一見しただけで険しい山間を流下する川であることがわかり、鉄道や整備された道路がない時代、流域に暮らす人々の生活の大変さはどれほどだっただろうか。
明治初期頃までは、大井川の中流・上流の地域と下流域の金谷・島田との交通は難しく、むしろ東西にある分水嶺を越えて現在の静岡市・藤枝市・森町などとの交通があったようだが、それも地図で見る限り相当の困難な道であったと思われる。
やがて船による交通網が整いはじめ、大井川の両岸に県道もできたが、道路の整備状況は不十分で馬車の通行も難しかったという。なにより、川の蛇行がひどく、結局は船による交通がたよりとなっていたようだ。この当時の米など生活必需品の搬入は、静岡市から藁科川を経由して千頭の対岸にある藤川に物資を集め、ここから周囲の集落に船で届けるか、下流の島田より船で遡航する2つのルートだった。
しかし、地域の集落の生活が困難だったというだけでは、鉄道の敷設にはこぎつけることはなかったかもしれない。大正に入ってから大井川鐡道の敷設計画が具体的になってきたのには、大きく2つの理由があると思われる。
1つには、大井川上流部にある森林の資源的価値である。明治に入り木材の需要が急増したことで、大井川支流の寸又川を中心に伐採が盛んに行なわれた(こうした背景で千頭森林鉄道も敷設されたが、その話はまた別の機会に)。伐採された木材は川岸の貯木場に集積されたのち、一定量の木材を一斉に川に流して運ぶという豪快な方式だった。しかしこの方式では、例えば増水時などに大きな破壊力を持って流域の船や構造物に被害を与えたことは想像に難くない。このため、それぞれの立場での利害の対立が起こっていたという。
2つには、水力発電の台頭である。明治から大正に時代が切り替わる頃にあわせ、それまで主力だった火力発電から水力発電へと大きく時代の流れが切り替わっていった。全国の河川に次々と水力発電所が作られていく中、水量の豊富な大井川もまたその対象となっていった。しかしこうした発電所の計画も、川の水量に影響を与えることで、先の木材を川に流す業者や船を扱う業者との軋轢を生んだ。さらに、発電所建設に必要な物資輸送でも、船による輸送に限界があるのは明らかだったのだ。
こうした背景により、問題の解決策として「鉄道」計画が持ち上がってきたのは、当然のことだったのかもしれない。
二転した鉄道ルート
最初に考えられたルートは、今とはまったく異なるものだった。
大正7年(1918年)に当時の駿府鉄道が申請したルートは、以下のようなものだ。
参考資料:大井川鉄道の成立 大井川鉄道沿線概要図より
当時の資料によれば、静岡市を起点とし藁科川に沿って進み、分水嶺を越えて藤川から千頭に至るものだった。このルートに至った詳しい経緯はわからないが、明治に生活物資を搬入していた経路の1つであることも選択肢の一因であったろう。
もしこのルートが採用されていたなら、今とは全く異なる状況になっていたかも・・と想像すると面白い。
そして2年後の大正9年(1920年)には、まったく別のルートが第2案として申請された。これも理由はわからないが、分水嶺を越えて進む困難さというのも間違いなく懸念事項の一つになったと思われる。
第2案では島田市を起点とし、上図の緑線で囲んだ村々、すなわち大井川の東岸を通るルートであった。
これで話が決まるかと思いきや、さらに2年後の大正11年(1922年)、ルートは変更され以下のようになった。
第3案のルートでは、赤線で囲んだ主に西岸のルートに変更されていた。同時に、駿府鉄道は社名を大井川鉄道に変更し、現在の大井川鐡道(平成12年 大井川鐡道に改称)の原型となった。このルートは、翌年、正式に認可された。鉄道の建設が本格的に、しかし資金調達など多くの困難を抱えてスタートしたのである。
ここでは、鉄道が開通するまでの詳細については触れないが、金谷駅から千頭駅まで開通したのが昭和6年(1931年)、路線距離39.5kmの大井川鐵道大井川本線の全線が開通した。
千頭より上流、大井川鐡道井川線が開通したのは、それよりさらに後の昭和34年(1959年)のことである。