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埼玉県北西部にある寄居(よりい)町は、ライン下りで有名な長瀞町がすぐ西にあり、その昔宿場町として栄えた歴史を持つ。秩父山地から流れ出る荒川が町を東西に横断し、川の両岸に河岸段丘が形成されている。
JR八高線・東武東上線の寄居駅から南下すると、すぐに荒川にぶつかる。対岸には、戦国時代に築城された鉢形城跡があり、この地点に架橋されているのが冒頭写真の正喜(しょうき)橋である。
河岸段丘に架かる正喜橋
正喜橋は橋長145.9m、幅員(ふくいん)7.5m、鋼3径間連続箱桁橋として、1957年(昭和32年)に開通した。
下流側に歩道専用路があり、照明灯も下流側のみに設置されている。
正喜橋の歩道から荒川の下流方向を眺めると、遠くにもう1つの橋が見える。東武東上線の荒川橋梁である。「荒川橋梁」という名前の橋は複数あるのだが、この東武東上線の荒川橋梁は、埼玉県の上路式トラス橋としては最古のものだ(1925年(大正14年)竣工)。
正喜橋を渡り、左岸の下流側まで歩いてきた。この近くにある雀宮公園から、河原に通じる散歩道がある。
雀宮公園から荒川の河原に向かう散歩道を歩いて行く。河原までは高低差があるので、ゆるやかに坂を下っていく。
正喜橋に近づいていくと、橋脚のすぐ近くに、平たい大きな岩があるのがわかる。
散歩道は橋の下をくぐり、上流にある河原まで続いている。先ほどの岩もすぐ近くに見える。その形状から自然のものとは考えにくい。
この岩はなんなのだろうか。
初代の正喜橋は吊り橋だった
平たい岩の話をする前に、現在の正喜橋が架かる前の話をしよう。
時は明治時代半ばごろまで遡る。この時代も荒川を越える橋はあったようだが、当然のことながら今よりもずっと簡易なものだった。現在の正喜橋のように河岸段丘の高さで架橋するようなものではなかったことは容易に想像がつく。荒川水系には冠水橋(埼玉県で多く使われる呼称。他の地域では沈下橋・潜水橋とも)が多く存在し、もしかするとこの地にあった橋もその類のものだったかもしれない。
木造の冠水橋は川が増水すると流されることもあり、現在よりも水量が多かった当時は、繰り返しの架橋が必要だったと推測される。
大変だったのはそれだけではない。橋の高さが低いため河岸段丘の両岸から人はもちろん、荷物を積んだ馬車などが急坂を上り下りするのも一苦労だったと、この地域の民話などで伝えられている。
こうした状況の中、当時の鉢形村の素封家に生まれた神谷茂助(敬称略)が、1920年(大正9年)私財を投じて吊り橋を架けた。これが、初代の正喜橋である。
後世に建てられた石碑には、「若干34歳にして大正3年12月出願、大正5年2月許可、全身全霊傾け全財産を投じて大正9年竣功」と刻まれている。
上の写真は、上流から正喜橋を撮影したもので、景勝地の絵葉書として販売されていたものだ。撮影時期ははっきりしないが、奥に東武東上線の荒川橋梁が写っていることから、昭和以降に撮られたものだろう。
絵葉書の一部を拡大したものが以下の画像だ。吊り橋のすぐ下に、丸い岩のようなものがある。「饅頭岩」と呼ばれている岩である。
実はこの饅頭岩、本記事の序盤で登場した平たい岩と同じものなのだ。
爆破された饅頭岩
初代の正喜橋は、着工から4年、総工費は当時のお金で18万1000円だった。物の価値基準が昔と今では異なるので単純な比較はできないが、当時の列車の最低運賃が5銭、現在のJR初乗りが140円から計算すると、総工費はおよそ5億円になる。
建設時期が第一次世界大戦(大正3年~7年)と重なったこともあり、資材が暴騰し大変な苦労を伴ったと記録にある。
これほどの大金を投じてまで橋を架けたかったのか、その情熱の源は何なのか。故人に聞くすべもないが、川で分断された地域をつなぐ「橋」というものが、それほど重要なことだったのだろう。
現在の地図を確認すると、正喜橋の下流には玉淀大橋があるが、玉淀大橋が出来たのは1980年(昭和55年)と茂助が架けた吊り橋よりも遥かに後のことだ。
また、上流にある秩父橋は1885年(明治18年)12月に竣工しているので、対岸に行くルートがなくはなかったが、少なくみても片道4km以上あり日常的な利用には現実的ではなかったはずだ。
時は流れ、2代目となる現在の正喜橋が総工費7400万円で架けられた。1957年(昭和32年)のことである。
当時の工事を撮影した貴重な写真が残されている。
下の写真には、饅頭岩が写っている。この位置から判断すると、左手が下流となる。
初代吊り橋の正喜橋は、現在の橋より50mほど上流にあったようだ。下の貴重な写真から、饅頭岩と吊り橋の間に(それも饅頭岩にかなり近い場所に)新しい正喜橋を建設したことがよくわかる。
ここまで読んでいただけば、「新しい橋の工事に、何らかの邪魔になったので饅頭岩の形を削ったのだな」と多くの方が思うだろう。
そうではないのだ。
新しい橋が完成した後も、饅頭岩は昔の形のまま残っていた。ところが、荒川が増水すると、饅頭岩に跳ね返った水が正喜橋に降り注ぐことがあった。これを解決するため饅頭岩を爆破した・・というのが、事の真相なのである。
かなり橋に近い場所にあったことと、上流にある玉淀ダム(1964年(昭和39年)竣工)ができるまでは今よりずっと水量が多かったことなどが要因であるが、なんとも豪快なエピソードである。
石碑が見つめる先に
雀宮公園から上流方向に向かう散歩道は、玉淀河原まで続いている。
玉淀河原から対岸の鉢形城跡を眺めてみる。左手に見える正喜橋から50mほど離れていた場所に吊り橋が架けられていたはずだが、河岸段丘の崖にはその痕跡は残っていない。
吊り橋がいつ解体されたかは不明だが、関係者の話を伺うとすぐに解体撤去されたのではないようだ。
しかし、地図にはわずかな痕跡が残されていた。
下の地図、現在の正喜橋からちょうど50m上流の場所に黄色い点線を引いた。寄居駅側の左岸には、かつては道がつながっていたであろう、行き止まりの道があった(赤矢印)。
正喜橋の近くに、神谷茂助の功績を称える石碑が建てられている。当初は橋の右岸の袂すぐの場所にあったが、現在は上の地図の緑×印の場所に移されている。
そう、まさにかつて吊り橋があったであろう、その延長線上に石碑がある。
こうした石碑は史跡などをたどればよく目にするものだ。が、ここまで細かくびっしりと故人の業績を称える内容が書き込まれているものをあまり見たことがない。それだけの地域住民の感謝の念が込められた碑ということだろうか。
石碑は目の前の道路から少し高い場所にある。
同じ高さまで近寄って見る。
石碑が向く方向の先には、現在の正喜橋が、そして目には見えずとも初代の吊り橋が、確かに今もその場所にある気がした。