別子銅山・遠登志橋で目撃!古橋保存の画期的方法

 

  

  

 

愛媛県新居浜市の深い渓谷の中に、やや色あせた赤い鉄の橋がある。遠登志(おとし)橋という名を持つこの橋は、一見すると下部のアーチと上部の吊り橋が合体しているように見えるが、別の時期に架設されたそれぞれが独立した橋だ。

下部のアーチ橋が架けられたのは、1905年(明治38年)。日本で現存する鋼製アーチ橋としては日本最古級のものであり、貴重な近代産業遺産の一つである。

 

★スポンサーリンク

遠登志橋はどこにある

人道橋として、上部の吊り橋を歩いて渡ることができる

 

瀬戸内の燧灘(ひうちなだ)に面する新居浜市の海岸線から、10kmほど南に遠登志橋はある。

第5代将軍の徳川綱吉がおさめた元禄時代に開坑した、歴史ある別子銅山への入口ともなる場所だ。

 

 

スポンサーリンク

遠登志橋に行くには

四国山地から新居浜平野まで、南から北に流れる国領川に沿って、県道47号を南(上流方向)に向かう。鹿森ダムを越えて200mぐらいのところ、新仙雲橋の手前左(東)に細い分岐道がある。

 

正面に見えるのが分岐道。看板や石碑のようなものが見える

 

新仙雲橋のすぐ東側には、古い仙雲橋が架かっていて、車両が通行できないように中央にコンクリートブロックが設置されている。古い仙雲橋は撤去せず歩道橋として使っているようだ。

 

1957年(昭和32年)竣工の仙雲橋

 

案内板には分岐道は描かれていないが、この道は鉱山採掘で栄えた東平(とうなる、図の右下)へ続いている

 

分岐道は、かつては仲持ち道と呼ばれ、採掘がはじまった1691年(元禄4年)から、牛車にとってかわられる1880年(明治13年)頃まで、「仲持ち」とよばれる運搬人が物資を運ぶ道だった。

山から町までは銅山で精錬された「あらどう」を運び、帰りは山に必要な生活物資を運び込む仲持ちたちは、重い荷物を背負って山道を行き来したという。現代人より体格の劣っているであろう仲持ちは、男性で45kg、女性で30kgもの荷物を背負っていたというから驚きだ。

 

分岐道の入口には仲持ち像がある

 

事前にGoogleマップで現地の確認をしたが、この仲持ち道が舗装されているのか完全な山道なのかわからなかった。実際に訪れてみると、少なくとも遠登志橋までは道幅も比較的広く舗装路だったので、軽登山のいでたちでなくても橋まで行くことはできる。

 

通行止めの時期もあったが、今は問題なく通ることができる(2023年3月現在)

 

山桜もあるようだが、まだ開花の時期には少し早い

 

木々の間から赤い橋が見えてきた

 

県道の分岐から10分もかからず、遠登志橋に到着。

 

谷は深く、ここからでは下がよく見えない

 

吊り橋の主塔が目の前に現れた。

 

 

 

★スポンサーリンク

吊り橋とアーチ橋が重なっているのは

アーチ橋が架けられた1905年(明治38年)から88年たった1993年(平成5年)、老朽化のため腐食した一部の部材を交換するなどの補修がなされた。しかし、通行するための安全性が確保できない、と考えられたのだろう。アーチ橋の床組を取り外し、上部に別の吊り橋を新たに架けたのだ。

 

主塔のすぐ横(右岸の上流側)には、新しい方の吊り橋の橋銘板がある

 

上流側からみた遠登志橋。アーチ上部の床組がなくなっているのがわかる

 

橋を渡ってみよう。

 

右岸側は木々に囲まれ日中でも薄暗い

 

吊り橋の中央まで来た。鋼製アーチ橋が架かる以前は、この深い渓谷に木造の橋が(もしくは吊り橋が)架かっていたはずだ。とすれば、重い荷物を背負った仲持ちたちと同じような吊り橋を今渡っているのだ(揺れ方は違うだろうが)。そう思うと感慨深い。

 

正面吊り橋の右手側に、渓谷に降りていくための階段の手すりが見える

 

橋名の由来は、急峻な場所を流れる川の水が滝となって落ち込む様子を表した「落とし」から転じて、遠登志と漢字があてられたと言われている。

 

上流側を望む。人の侵入を阻む深いV字の渓谷だ

 

吊り橋を渡り切ると、左手(上流側)に立派な案内板が立っていた。在りし日の遠登志橋の姿を写したもので、銅山にちなんで(おそらく)銅板で作られている。

 

今は外されているが、アーチ橋にもちゃんと手すりがついていたことがわかる

 

設計はドイツ人技師によるものと言われており、明治期に存在したドイツの鉄鋼メーカー「BURBACH」(ブルバッハ社)の鋼材を組んで架設された。(アーチ橋にBURBACHの刻印があると聞いていたが、現地ではアーチ部に近づくのが危険だったため確認できなかった)

現在は取り払われているが、当時の橋には坑水路が併設されていた。

銅山の排水には重金属などが含まれており、そのまま川に排出すると環境的な問題がある。橋の完成と時を同じくして第三通洞と呼ばれる坑道が完成したことで、すべての坑水をそこに集め、海岸まで総延長16kmの坑水路を敷いた。遠登志橋はその抗水路を通す役割も担っていたのである。

遠登志橋は、国の登録有形文化財としてだけでなく、国の銅生産を支えた別子銅山関連遺産として、経済産業省の近代化産業遺産にも認定されている。

 

下流側(左岸)に認定プレートが設置されていた

 

「鉄の橋百選」の著者、成瀬輝男氏は同書の中で遠登志橋について以下のように述べている。

 

吊橋は旧アーチ橋に重なったように見えるが、これも旧橋とは縁が切られていて、旧橋には荷重を伝えていない。前出の打除橋と同じく、古橋保存の新しい方法として注目される。

「鉄の橋百選」 成瀬輝男著

 

古い橋が老朽化した場合、撤去解体して新橋を架けるか、もしくは古い橋を残したまま隣接した場所に新橋を架け古い橋の処遇は先送りするか・・といったケースがほとんどだったと思う。

成瀬氏が指摘するように、古い橋を残しつつその姿に一体化した形で保存するというスタイルは、廃橋でありながらも現役として存在するという、古橋保存の一つの方向性を示したものだろう。

なによりも、遠登志橋が示すその圧倒的な存在感が、貴重な産業遺産としての価値を強く物語っている。

 

下流側(左岸)から撮影

河川名 小女郎川
橋 長 48.25m
幅 員 2.4m
支間長 37m
形 式 スパンドレルブレーストアーチ
    ※アーチはI型鋼・両端をピン支承で固定

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事