禄剛埼灯台だけになぜ「菊の御紋」があるのか

 

 

 

 

ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

 

到達:2022年10月
難易度:■□□□(入門)

 禄剛埼(ろっこうさき)灯台(石川県珠洲市)は、ぜひ行ってみたい灯台だった。

 禄剛埼灯台は能登半島の本当に突端にある。道の駅の駐車場から歩いて5分ぐらいで行けるという手軽さもあり、観光客が多い“メジャー”な灯台だ。

 そういう「灯台クエスト」の“対象外”であるような灯台に行ったのは、一番カッコイイと思っている立石岬灯台(福井県敦賀市)と似ていることのほかに、両者の間に歴史的な大きな境目があるからだ。

 

Googleマップ 禄剛埼灯台

  

急な上り坂の先に現れる

 “狼煙(のろし)”という、いかにも灯台がありそうな地名の道の駅にクルマをとめると、わかりやすい案内板がある。

 

 

 

「400m、8分」は楽勝、という印象だがとんでもない。ものすごい急な上り坂なのだ。

 

 

 

 

 前半200mで高低差(20~30mぐらい?)を一気に消化すると、平坦な芝生が広がる。

 

 

 

 見えてきたぞ。

 

  

 

 想像していたより灯籠(光源やレンズがある灯台上部)が大きい! 広場部分より一段低いところに灯台があるというのは、珍しいかもしれない。

 

 

 

 これが正面。“付属舎”(塔の下部にある部屋のような部分)が半円形であるのも大きな特徴だ。

 

 

 

 

 禄剛埼灯台の初点灯は1983年(明治16年)7月。その一つ前に作られたのが、前述した立石岬灯台(初点灯は19881年7月)だ。どちらも石造りで塔がそれほど高くない。円形か半円形かの違いはあるが、付属舎の見た目はちょっと似ている(多くの灯台の付属舎は直方体)。

 

立石岬灯台

 

 

 

「日本人だけ」の最初の灯台か?

 だが、この2つの灯台の間には、歴史的な大きな境目があると考えている。それは「設計から建築までに外国人が関与したか、日本人だけでおこなったか」ということだ。

 明治になって日本は、レンズを使った明るい「西洋式」灯台を作り始めた。そのとき西洋の持つ技術を日本にもたらした立役者が、英国人技師のリチャード・ブラントンだ。ブラントンは1868年(慶應4年、明治元年)から1876年(明治9年)まで、後任のジェームス・マクリッチは1872年(明治5年)から1879年(明治12年)まで日本に滞在し、多くの灯台建設に携わった。

 そして、技術が日本人に伝承されるに従って外国人技師は次第に帰国し、1881年(明治14年)にはだれもいなくなった。ちょうど、立石岬灯台(1881年初点灯)と禄剛埼灯台(1883年初点灯)ができたころだ。

 立石岬灯台は「日本人だけで設計・建造された初の灯台」と言われたりするが、実はマクリッチも関与していたようだ、という話は次の記事で書いているのでそちらを参照してほしい。

 とすると、「日本人だけで設計・建造された初の灯台」は禄剛埼灯台なのではないか?

 珠洲市の観光サイトには「明治時代に日本人の設計で造られた白亜の灯台です。」とある。また、海上保安本部のWebページには「明治16年、建設はすべて日本人技術者の手で建設されました。」とある。

 なお「ブラントンの設計による」と書いているWebページ(主に観光系サイト)がいくつかあるが、その根拠は示していない。1876年に離日したブラントンが、1881年(完成の2年前)に工事が始まった禄剛埼灯台を直接設計したと考えるのは難しい。

 ただ、1870~1876年(明治3〜9年)に作られた石造灯台が、すべて円筒形の灯塔に半円形の付属舎が付いた形状であるため、「ブラントン型灯台」と呼ぶそうで、禄剛埼灯台も「ブラントン型」である、とは言える。

 立石岬灯台の次に建設され、「日本人だけで設計・建造された灯台」であるなら、禄剛埼灯台が「日本人だけで設計・建造された“初の”灯台」と考えてほぼ間違いないのではないか。

 

 

「菊の御紋」の持つ意味は

 そして、その仮説を補強する材料が「菊の御紋」なのだ。案内板によれば、「日本で唯一菊の御紋章がある灯台」だという。それがこれだ。灯塔の中央付近(ほかの灯台では入口の上)に掛けられているもので、「銘板(記念額)」と呼ぶらしい。

 

 

 

 菊が円ではなくちょっとゆがんでいる。また、その下の白い図形がなにを表しているか、よくわからない。なので、実際に見たときに「これは菊の御紋だろうか」という疑問が湧いた。

 だが後日、「菊の御紋」がこれだけではないことが判明した。

 公益社団法人燈光会の会誌「燈光」の平成27年9月号、「明治の灯台の話(52) 禄剛埼灯台」という連載記事(著者は「灯台研究生」)に、「灯台の踊り場の支え金具に菊の模様が施されているのです」との記述があった。

「燈光」の連載「明治の灯台の話」には、立石岬灯台のときにもたいへんお世話になった。貴重な資料である。

 

 写真を見返したらたしかに菊っぽい形があった!

 

 

 

 また、内部の天井にも菊の模様があるという(禄剛埼灯台は年に3回ぐらい内部が公開されるので、確認することはできるだろう)。

 そして、このような菊の模様が付いた灯台はほかにない。なぜ菊の御紋を付けたのか、なぜほかの灯台にはないのか、その経緯がわかる資料は残っていないそうだ。

 一方、立石岬灯台の銘板がこれだ。初点灯の年月日が英語と日本語の両方で書かれている。銘板に英語の年月日が刻まれているのは立石岬灯台が最後だ。

 

立石岬銘板

  

 こう考えてはどうだろうか。禄剛埼灯台では、ついに外国人の手を借りずに作ることができた。諸外国に追いつくことに必死だった明治初期、「日本人だけで」できたということは大きな誇りを感じたことだろう。とすれば、日本の国を誇るシンボルとして菊の御紋を使い、さらに日本語だけで年月日を記述することにしたのではないか。

 前の方で2つの灯台の写真を並べたが、シロウト目には似ているように思う。しかも銘板の書体が、印鑑に使われるような変わった形でそっくりだ。

 考えてみれば、禄剛埼灯台を仮に日本人が設計したとしても、ブラントンやマクリッチの設計を受け継いでいることは間違いない。実際に手を動かしたのが日本人だけだった、という価値は大きい。だが、技術というのは常に連続して継承されていくものだ、ということを、この2つの“似た”灯台が表しているように思う。

 

 最後に前出の連載記事「明治の灯台の話(52) 禄剛埼灯台」の記述を引用しておこう。

 

 禄剛埼灯台の設計は外国人が関与していないことが強く考えられます。外国人技術者がすべて去った後ブラントン型灯台が復活した理由は、彼らの援助なしに日本人技術者だけで建設できる石造の洋式灯台は、彼らと最も多く携わったブラントン型灯台が1番だったからではないでしょうか。

https://tokokai.org/kaishi/touko_2015-9.pdf

 

 

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