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新潟県内で、初めて新潟と直江津(なおえつ、ともに新潟県)を結ぶ鉄道が開通したのは1898年(明治31年)のことだった。敷設したのは北越鉄道、今や時の人でもある渋沢栄一が1895年(明治28年)に設立した鉄道会社である。
新潟から南下した路線は、一ノ木戸(現:東三条)を経由して長岡まで延伸したのが1898年(明治31年)の6月。一方、直江津から北上する路線は、柏崎・北条と延伸し、南下路線が長岡に到達したのと同じ年の1898年の12月に長岡まで延伸した。これにより、北越鉄道は全線開通となったのである(各駅の位置は下の地図参照)。
北条から長岡に延伸するにあたり、路線は信濃川を横切る。このときに架けられた鉄道橋が旧浦村鉄橋だ。1898年(明治31年)に竣工・開通した鉄橋は、長年「浦村の鉄橋」として地元で親しまれたと聞く。が、令和の今、信濃川にかつての浦村の鉄橋は存在しない。
今回の探検ウォークでは、この旧浦村鉄橋にまつわる、橋の今昔物語をレポートする。まずは、旧浦村鉄橋のあった場所を訪ねていこう。
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紫のマークがかつて旧浦村鉄橋があった場所
関東からアプローチする場合、長岡までは新幹線。その後、信越本線の「上り」列車に乗り換えて、前川駅まで乗車する。前川からは徒歩で、かつて旧浦村鉄橋が架かっていた場所、現在は「信濃川橋梁」と呼ばれている新しい鉄道橋の近くまで行くことにする。およそ2kmほどの距離だ。
ちなみに、私は長岡8時6分発の直江津行きに乗車した。この時、乗り込んだ列車は下りと勘違いしていた。実は、直江津に向かうのは上り列車である。どうでもいいと思われるかもしれないが、この「上り下り」があとで少し大事な話に関わってくる。
前川駅に到着
北越鉄道の全線開通時に、この前川駅は存在しなかった。1906年(明治39年)に国有化され、それから60年近く経った1964年(昭和39年)に信越本線の駅として開業している。
なにやら空がかなり怪しい雲行きになっている。この日の天気予報は「雨」、なんとか持ってくれるといいな、せめて小雨ぐらいでお願いします・・と祈りながら探検ウォークのスタートである。
前川駅から信濃川を目指す
まずは信濃川の右岸の堤防沿いの道にでて、信濃川に架橋されている現在の鉄道橋まで近づいてみる。上の地図では「現 浦村鉄橋」となっているが、正式名称は信濃川橋梁である。
踏切を越える。北の空は真っ黒だが、南は青空が広がっている。
その後の道は分岐していてわかりにくいが、いずれの道を通るにしても西方向を目指していけば問題ない。
訪問時は12月の初旬。稲刈りも終わり、すべて万事終了しました感が漂う穏やかな景色に、変化に富む雲の動きがいいな。
堤防沿いの道まで出ると、前方によりはっきりと鉄橋の姿が見えてくる。信濃川の川幅が広いため、鉄橋も長く、トラスが何連も続いている。
鉄道橋と右岸が交差する場所までやってきた。
国鉄民営化のおりに、大量に放出された貨車のコンテナだろうか。資材倉庫として橋のたもとに置かれている。
浦村の鉄橋から信濃川橋梁へ
信濃川の一番下流側にある青い鉄橋が、信濃川橋梁下り線である。上の写真を拡大するとかろうじて確認できるが、右岸側からプレートガーダーが1つあり、対岸に向けて9連のトラスが続いている。この下り線の向こう側(上流側)には上り線の鉄橋もあるのだが、右岸側からはプレートガーターが延々続くため(トラスはあるのだが、6連と短く左岸寄りにある)、上の写真では下り線の陰になって見えない。
ここで一度、この地に架かる鉄道橋の変遷を確認しておく(下表参照)。
冒頭で紹介した通り、浦村鉄橋の架設・開通が1898年である。その後、橋の老朽化もあり、浦村鉄橋のすぐ下流側に新しい鉄道橋が架設された。これが、現在の信濃川橋梁の上り線である。
(このとき、浦村鉄橋は撤去・解体されたのだが、それはまた別記事で)
しばらくは単線で利用されていたが、1970年に複線化され、さらに下流側に下り線専用の橋が架設された。1952年に架けられた橋は上り線専用となったわけである。
信濃川橋梁の少し上流には越路(こしじ)橋という道路橋が架けられている。その橋からは、上り線がよく見えるはずなので、越路橋まで移動する。
信濃川橋梁の下をくぐれば近道なのだが、それも難しそうなので大人しく回り道をして上流側に向かう
越路橋を渡る
信濃川橋梁の上流側にやってきた。さきほど立った場所と橋を挟んで反対側である。青く塗装された下り線の手前に、緑色のプレートガーダーが並んでいるのがおかわりいただけるだろうか。
越路橋を渡って、左岸に行ってみよう。
旧浦村鉄橋の解体にも関係する初代の越路橋は1959年(昭和34年)に有料道路として開通した。現在の越路橋は2代目である。
ちょうど下り列車が橋の上を通過している。手前にある緑色の上り線は、信濃川の通常の川幅にあわせるようにプレートガーダーから6連のワーレントラスにつながっている。
左岸から信濃川橋梁に近づいてみる。こちら側は上下線のトラスが並んでおり、迫力のある眺めだ。手前にある上り線の橋脚には中央に穴が空いている。これを見たとき、初代の旧浦村鉄橋の橋脚に似ているな・・、橋桁だけ架け替えたのかなと一瞬思った(もちろん、違う)。
時代的なこともあり、旧浦村鉄橋の橋梁下部工(橋脚・橋台・その他基礎)は「煉瓦井筒基礎」と記録がある(土木学会附属土木図書館. 橋梁史年表より)。100年以上前の古いレンガの一部が、信濃川の川底に眠っているかもしれない・・と思うと、ありがとうございました・・という気持ちになってくる。
1回目のレポートはここまでだ。次は解体されてばらばらになってしまった旧浦村鉄橋の分身たちを訪ねていく。
明治に作られた鉄道橋は解体され、それぞれの役割で地域にとけこんでいる様子をご覧ください
「田園風景の中で圧倒的な存在感、浦村鉄橋の分身たち」(JBpress)