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1997年(平成9年)に廃止になったJR信越線の一部、横川から軽井沢に向けての廃線跡の道沿いには、古い歴史を感じさせる旧丸山変電所がある。
この煉瓦造りのがっしりとした建物を見たとき、なんともいえず懐かしい気持ちになった。
この区間が廃止になる前、列車で通過したことが幾度かあるはずなので、その時の記憶なのかとも思ったがどうも違う。もっと古い原体験の記憶の断片が見え隠れするような感覚だ。
丸山変電所と糸魚川のレンガ車庫
後になり、もやもやとした記憶がどこから来たものかを思い出した。
子どもの頃、新潟県糸魚川(いといがわ)市にある祖父母の家によく泊まりにいった。北陸新幹線はもちろん、上越新幹線もない時代。上野から金沢まで特急「はくたか」で6時間半かかっていた頃である。(ちなみに今、北陸新幹線「かがやき」に乗れば最短で2時間半だ)
祖父母の家の最寄り駅は糸魚川だ。長い時間列車に揺られて、やっと到着したホームに降り立つと、幾本もの線路の向こうに大きな三角屋根の建物が見えた。
3連のアーチが特徴的な煉瓦造りのその建物は、糸魚川駅の機関車庫で、通称「レンガ車庫」として地元で親しまれているものだった(冒頭の写真)。
信越線が糸魚川まで延伸し糸魚川駅が開業したのが1912年(大正元年)。この年にレンガ車庫も作られている。当初は蒸気機関車の車庫として、その後はディーゼル機関車などの検査や修理を行う検修庫として、2010年まで現役で使われていた。
およそテニスコート4面分の広さを持つレンガ車庫は、一部に石材が使われた煉瓦積みで、小屋組み(屋根の骨組みのこと)は鉄骨トラス梁だった。
今はもう解体されてしまっているのでGoogle Mapの航空写真では確認できないが、国土地理院の1974年~1978年頃に撮影された写真には、レンガ車庫の屋根がしっかり映っている。
糸魚川のレンガ車庫と丸山変電所は、建物の形がよく似ている。単に似ているというだけでなく、全く同じ年に竣工した2つの煉瓦造りの建物には、目に見えない共通の何かがあるように感じる。
この時代、多くの煉瓦造りの建物が作られている。いずれもその時代の旬を映す歴史的な建造物で、技術者や職人など関わった多くの人の情熱・エネルギーが、100年近くたった今も消えずに残っているように思う。
レンガ車庫が解体されたワケ
1982年(昭和57年)に大宮から新潟まで上越新幹線が開通した。長岡を経由して上越新幹線と特急を乗り継げば、糸魚川までは4時間半程度でいけるようになった。新幹線がないころに比べればずいぶん時短になったが、やはり東京と北陸地方を直接つなぐ北陸新幹線に対する根強い要望もあった。
長野オリンピック開催の前年、1997年(平成9年)に長野新幹線が開業。その後、長野から金沢まで延伸し、2015年(平成27年)3月に北陸新幹線が開業した。
北陸新幹線の工事が本格化し、新幹線停車駅の糸魚川はお祝いムードに包まれたが、一方、困った事態も起きる。
新幹線の線路は在来線ホームの南側を走る。自ずから新幹線用の駅も在来線ホームの南側になる。何が困ったことになるかは、下の地図を見ていただければ一目瞭然だ。
下の地図は上で紹介したレンガ車庫があった時代と、現在の新幹線の駅ができている時代とを重ね合わせたものだ。現在の新幹線駅に重なる場所にレンガ車庫がある。仮に駅の場所をずらしたとしても、新幹線の行く手を阻む場所にレンガ車庫が立ちふさがっている。
新幹線を通すためには、どうにもレンガ車庫がじゃまなのである。
レンガ車庫を撤去しないでなんとかできないかという案も検討されたかもしれないが、最終的にはレンガ車庫は解体されることになってしまったのだ。
解体後にレンガ車庫を再生
市民に愛されていた古い歴史あるレンガ車庫の解体を惜しむ声は多かった。レンガ車庫を完全な形で移築・保存を望む11633人の署名が集まったと聞くが、移築にかかる資金など多くの問題が立ちはだかり、2010年解体・撤去された。
レンガ車庫を完全な形で保存することは叶わなかったが、かつての姿をイメージできる形で一部が移築されることになった。すぐ上の写真にあるレンガ車庫モニュメントがそれである。
冒頭の写真、レンガ車庫の3連アーチがあった壁の部分がそのまま再現されているのがお分かりいただけるだろうか。幅16m、高さ10mのレンガ車庫の顔が、駅建物の1階にある糸魚川ジオステーション・ジオパルの一部として据え付けられている。ちなみに、左端のアーチの向こう、ビルのシャッターの奥に電車のようなものが見える。これはJR大糸線で活躍していたキハ52で、広場に続く線路を通り建物内から出てくることもあるようだ。
後に再利用する部分の解体は、慎重に行なわれたはずだ。解体の図面には、横方向に6段、縦方向にも細かく切断する線が引かれていた。実際のモニュメント制作時には、解体された大小62個のブロックの一部を利用して組み立てられたということだ。
そう聞いて、再びレンガ車庫モニュメントの写真を見ると、本来のレンガ車庫にはなかった縦横の筋が何本もみえる。
少し近づいてみると、組み立てられた様子がはっきりとわかる。
実際のレンガ車庫は奥行きが44mほどあったと聞くが、レンガ車庫モニュメントでは数十センチの奥行きになり、両サイドにもレンガ車庫の一部と思われる壁が設置されている。
正直なところ、かつての重厚なレンガ車庫の記憶があると、すっかり薄っぺらくなってしまったモニュメントはなんだか切ない。こんな姿になっちゃって・・と。
でも、それでも、こうやって残されたことがよかったと思う自分もいる。一部であれ、解体・保存・移築するのに、多くの人の熱意と労力が費やされたことに感謝をしなければと思うのだ。
奥行きの浅いレンガ車庫モニュメントの強度を高めるために、レンガの中に補強用の金物が埋め込まれている。さらに背部にある太い鉄骨にしっかり固定させることで、強風などにも耐えられる構造となっている。
100年近くの時を経て解体され、新しい糸魚川の顔として生まれ変わったレンガ車庫。こちらの方面へお越しの際は、ぜひ間近な位置から古き煉瓦の味わいを感じていただければと思う。
最後に、もう一つ煉瓦造りの機関車庫を紹介したい。
JR奥羽本線にある新庄駅にも、古い機関車庫がある。「赤れんが機関庫」とも呼ばれるこの建物が竣工したのは、なんと1903年(明治36年)のことだ。
糸魚川駅レンガ車庫は3連アーチだったが、同じ3連でもこちらは四角い形をしている。
118年経った今も現役の姿を、なんとしても近くで見たいと思うのだが、残念ながら原則見学は禁止となっている。(駅のホームの端から、肉眼で見られる場所にはある)
コロナが収まり平穏な世の中が戻ってきたら、なんとか見学の機会を設けていただけないかと思うばかりだ。それまでは、山形県が公開しているコチラの写真で我慢しようと思う、今日この頃である。