珍しい2重構造の掛塚灯台、“行きやすい”のはなぜ?

 

ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

 

到達:2023年3月
難易度:■□□□(入門)

 険しい岬の突端や無人島など、灯台は“行きにくい”ところに建っているものが多い。そのなかで、砂浜近く、わりと“行きやすい”掛塚灯台(かけつかとうだい、静岡県磐田市)は珍しい存在だ。

 掛塚灯台はこの地図のような場所にある。伊良湖岬灯台や御前埼灯台のように、“とがった部分”に灯台があるのは納得できる。では掛塚灯台はなぜ平坦な海岸線の場所にあるのだろうか。

  

(国土地理院)

 

 掛塚灯台のある場所は、天竜川の河口だ。江戸時代から明治時代にかけて、掛塚のあたりは天竜川上流から運ばれる木材が集積し、それを全国各地に運ぶ港としてにぎわっていた。

 ところがその南側の遠州灘は荒れることも多く、遭難も相次いでいた。そのために、元幕臣の荒井信敬氏が1880年(明治13年)に私費で木造灯台を作ったのがそもそもの始まり。そして1897年(明治30年)に国が作った近代灯台が、今も残っている掛塚灯台なのだ。

 この写真は1950年(昭和25年)の様子だ。灯台の向こう側(左前方)に砂州のようなものが見える。

 

 

 これは1970年代あたりだろうか。赤白帽を被った小学生と、シートを敷いてくつろぐ家族連れ。遠足かもしれない。大勢の人に囲まれたにぎやかな雰囲気で、灯台もなんかうれしそうだ。

 

 ※この2枚の写真は旧掛塚灯台跡にある「掛塚灯台案内」を撮影

  

 このように、砂浜という比較的珍しい場所にあるのだが、そのために生じる問題もある。海岸線の形が変わりやすいのだ。

 そして2002年(平成14年)、海岸侵食と地震への対策のため、100mぐらい天竜川河口に寄った場所(西方向)、つまり現在の場所に移設された。

 津波や高潮の被害を考慮して、台形の盛り土の上に設置されたのだが、そのあとに防潮堤が作られて、盛り土の半分が防潮堤に取り込まれたことにより、現在の姿になっている。

 

 

 なお、移設前の場所(の近く?)には、旧掛塚灯台跡として「荒井信敬翁之壽碑」が建っている。荒井信敬氏が木造灯台を作った経緯が石碑に書かれているが、漢文なので意味がぼんやりとしかわからない。

 

 

 さて、従来の「灯台クエスト」と同じように、灯台へ到達するまでの道のりを説明しよう。と言いたいのだが、このような砂浜の海岸沿いにあるので、行くのにほとんど苦労はない。浜松駅付近からだとクルマで30分ぐらい走れば到着する。

 ただ最後の堤防沿いの道は幅が狭くてちょっと走りにくい。

 

 

 対向車とすれ違うのがギリギリだし、こんな海岸になんの用事か(釣り?)、道に駐車しているクルマもある。あまり幅の広い車種ではない方がいいかもしれない。

 だれのためなのかがよくわからないが、灯台近くに数台分の駐車場があるので、そこに止める。もう灯台はすぐそこだ。迷いようがない。

 

 

 到着。白い塗装が青空に映える。

 

 

 正面(海側)の窓のデザインもいい感じ。

 

 

 前述したように、灯台の後ろ側(陸側)には防潮堤が作られている。土を固めただけなので、まだ工事途中なのか。防潮堤の天頂から灯台へ降りていくスロープも作られている。

 

 

 灯塔は、人で例えるとウエスト部分にベルトがあり、下半身がスカートのように広がったような形になっている。それは上下で素材が違い、下半分は(無筋)コンクリート造り、上半分は鉄造という、珍しい2重構造になっているからだ。この組み合わせは日本でここだけかもしれない。

 

 

 なぜこういう造りなのか。掛塚灯台ができた時代(1897年、明治30年)は、まだコンクリート技術が未熟だったからだ。

 西洋式灯台は明治中期まで基本的に石造りだったが、次第に工事が容易なコンクリートや鉄が使われ始めた。日本で最初の無筋コンクリート造りの灯台は、鞍埼灯台(宮崎県日南市、1884年=明治17年初点灯)だが、写真を見ると四角い付属舎はあるものの灯塔は非常に短い(低い)。

 掛塚灯台ではもう少し高いものを作る必要があったのだが、無筋コンクリートでは強度的に実現できなかったため、半分より上を鉄製にせざるを得なかったのではないかと推測する。

 日本初の鉄筋コンクリート造りの灯台は、だいぶあと、1912年(明治45年)初点灯の清水灯台(静岡県清水市)まで待つ必要があった。そしてその後、日本の灯台は鉄筋コンクリート造りが主流になった。

 このような構造のため、灯台の入口はかなり高いところにあり、そこまで鉄製はしごで上っていく必要がある。こんな高い入口はかなり珍しいのではないか。通常は入口の上にある銘板(記念額)がはしごの横(写真では左の黒っぽい長方形)という中途半端なところにあるのもおもしろい。

 

 

 入口より下の部分、中はどうなっているのだろうか。すべてコンクリートで埋め尽くされているとは思いにくい。ちょっと知りたいが、それについての記述はネット上には見当たらなかった。

 上半分の鉄製部分、以前の写真を見ると錆の色が確認できるが、現在はまっ白だ。数年前に「チタン箔」というものを貼ったらしい。これで、この“明治生まれ”もまだまだ現役で働けるだろう。

 

 

 最後に、掛塚灯台がきれいに見える場所をもう一つ紹介しよう。後ろを振り返って陸側を見ると、こういう景色だった。

 

 

 ちょっと小高い山が見える。緑があるところは磐田市竜洋公園だ。

 公園の中にある「竜洋富士」に登ってみると、遠くにポツンと立つ掛塚灯台が見えた。ひとりぼっちでちょっとさみしそうだ。

 

 

 公園では遠足に来た幼稚園児が遊び回っていた。遊具が整備された公園もいいが、昭和時代の写真のように、たまには灯台の周りでも遊んでもらいたいと思う。

 

スポンサーリンク

Twitterでフォローしよう

おすすめの記事