踏切の名前に時代が眠る 祖母井街道の謎

JR東日本の烏山(からすやま)線は、宝積寺(ほうしゃくじ)駅(栃木県塩谷郡高根沢町)と烏山駅(栃木県那須烏山市)をつなぐ、全8駅の路線だ。開業は、1923年(大正12年)。宝積寺と烏山の間に、熟田(にいた)と大金(おおがね)の2駅を含む全4駅でのスタートだった。
(注:熟田はその後、現駅名の「仁井田」に改称)

1934年(昭和9年)に蒸気機関車から気動車に変わり、下野花岡(しもつけはなおか)駅を含む3つの駅が新設された。

ちなみに「広報なすからすやま」の資料によれば、開業当初は烏宝(うほう)線で、1934年に烏山線に改称したと書かれているが、正式名称は最初の段階から烏山線だったという記録もあり、調べた時点では確かなことはわからなかった。(地元の意向としては烏宝線押しだったのかなという印象)
 

1面1線のシンプルな構造の無人駅

 
 

下野花岡駅で下車したのは、仁井田駅の間にあるキリンビール栃木工場専用線跡を探索するためだった。が、駅周辺をうろうろしていると、興味深い古い踏切があった。今回は、その話を書きたいと思う。

 

ときどき、無人駅

☆下野花岡駅については、こちらの記事もどうぞ

下野花岡駅 ~寿老人~

 
 
駅の東側、ホームに上がる階段のすぐそばに、小さな踏切があった。狭くて小さな踏切だ。
 

ミラーに写るのは、蓄電池駆動電車EV-E301系。愛称は「ACCUM」(アキュム)

 

 
踏切の正面に行ってみると、人がやっと通れるくらいの踏切である。
踏切注意柵に書かれていた名称を見ると、「旧祖母井街道踏切」とある。

以前、無理やり車で通ろうとした人がいたのだろうか・・というくらい通さない気合の入った踏切

 
 

あちこちの探検ウォークを始めるようになってから、踏切の名称を都度確認するようになった。以前は気にも留めたことがなかったのに、まったく興味がわくと人は変わるものである。特に「旧」などとついていたりすると、俄然テンションがあがってくる。

「祖母井」はこの地域の地名なのだろうと調べようとしたが、そもそも「祖母井」が読めない。「そぼい」じゃないことはなんとなく勘でわかる。話が横道にそれるけど、駅名の「下野」も「しもずけ」だと思っていた。だって、吉良上野介(こうずけのすけ)のイメージが強いから。実は、開業当初の読み方は「しもずけはなおか」だった。1990年(平成2年)に「しもつけはなおか」に改称したらしいんだけど、なぜなんだろうか。

話を元に戻して、「祖母井」は「うばがい」と読むらしい。軽くweb検索してみたけど「祖母井街道」はヒットしない。まぁそのあたりは帰宅してからじっくり調べることにして、もう少し現地の探索を続けることにした。

ホームの東側にある旧祖母井街道踏切から西方向を見てみると、あちらにも踏切がある。

宝積寺方向を臨む

 

 

ホームの西端から80mほど先にある踏切の名前は「祖母井街道」だった。交差する道路は「栃木県道181号上高根沢氏家線」となっている。「祖母井街道」は通称なのかな?と思ったがWikipediaにも一言も載っていないし、なんとなくもやもやしたものだけが残る。
 

右手に下野花岡駅。踏切を越えてこのまま北進すれば、栃木県さくら市氏家方面へ  画像はWikipediaストリートビューより

帰宅してから祖母井街道について調べてみた。

下野花岡駅から南に10kmちょっとのところに「祖母井」という地区が確かにある。おそらく「県道181号上高根沢氏家線」と「祖母井街道」なるものは、かなりオーバーラップしているものだろうと思う。ただ本当にそうなのか確証はない。別にどうでもいいことなのかもしれないが、妙に気になって、もう少し調べてみることにした。

ほにゃらら街道というからには、もっと古い時代からの交通路であったはずである。
その観点から調べてみると、栃木県の幕末・明治時代ごろの古地図が見つかった。

栃木県下野国全図

当時の集落が綿密に書き込まれている地図なんだけれど、上のリンクをクリックしていただければわかるが、とにかく細かくて目的の地名を見つけるのは、まるでウォーリーを探せの世界である。(しかも北は上じゃない←探し始めた後になって気が付く)

ぜーぜー言いながら「祖母井」「花岡」を見つけ出したが、地図がゆがんでいるせいもあり、正直なにがなんだかさっぱりわからない。

五行川と野本川が位置を特定する手助けになる

 
 

そこで、古地図から離れて、文章で書かれている資料を探してみた。(本当は郷土資料館みたいなとこに直接出向ければ即解決のような気がする)

けっこうな時間がかかったけれど、ありましたよ。私が求めていた内容が記載された資料が!
 

こうして東西道路は商品物資輸送路として江戸時代には大いに栄えた。その流れは明治期に入っても重要な役割を持ち、町の北部を烏山街道が宇都宮―宝積寺―石末―花岡を通って烏山に向かっている。また、南部を走る道路が烏山南街道で台ノ原―大竜内―木内―般若塚を通り中柏崎から烏山に通じている。南北の道は、祖母井と氏家を結ぶ道で、明治期より地域の道として、また住民が利用する道として、東は向戸から西般若―栗ケ島―寺渡戸―平田―花岡―大谷を経て氏家に、西は向戸―金井―石末―大谷を経て氏家へと通じている。

高根沢町史 通史編Ⅱ 主要道路の設備 より

 

要するに、下野花岡駅を含む高根沢町の北側に烏山街道が、南側に烏山南街道が東西に走っていて、それとは別に住民たちの生活道路として、2本の街道が南北にあったと。その1つが、祖母井から西般若―栗ケ島―寺渡戸―平田―花岡―大谷を経て氏家に至る「祖母井街道」ということでいいのかな。


  

栗ケ島と祖母井の間にあるはずの「西般若」という地名は現在残っていないが、やや東寄りの近隣に「般若寺跡」があるので、以前はあった地域名ではないかと思われる

 

 

こうやって俯瞰で見てみると、もともとの街道の横に駅を作ったのだなという気がする。

 

上が宝積寺方向で、手前が烏山方向   Google 衛星写真より

 

 
この踏切を南北に貫く旧道に立ち、しばし人々が古の街道を行き交う様子を想像してみる、そんな令和の候なのだった。

 

旧祖母井街道踏切を背にする。後方右手には下野花岡駅がある Googleストリートビューより
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