【8】古の馬車鉄道が通った道 わたらせ渓谷鉄道の旅

 
 

わたらせ渓谷鉄道、各駅を順に旅するの第8回。

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坂東カーブを過ぎると、まもなく進行方向に吉ノ沢架樋(よしのざわかけひ)が現れる。風化した花崗岩(かこうがん)からの砂や大量の雨水を防ぐために1935年(昭和10年)に作られた。85年が経過して樋部分のコンクリートはだいぶ劣化しているように見えるが、古いレールを再利用したオリーブ色の支柱が、がっしりと樋を支えている。
樋が作られているということは、ちょうどこの上部に雨水が集まる水路があるということだろうか。
 

 

①坂東カーブ ②笠松片マンプ   Google マップより

 

馬車鉄道の名残 笠松片マンプ

 
吉ノ沢懸樋をくぐり抜けると、すぐ前方に笠松トンネルの入り口が見えてくる。次の原向(はらむこう)駅までおよそ1.5km、群馬県と栃木県の県境に位置する通称「笠松」のこの地は、鉄道が通るはるか昔から、行き交うものを阻む断崖絶壁の難所だった。

中央に見えるのが笠松トンネル。神戸(ごうど)あたりに比べ、春はまだこれからといった雰囲気

 

列車はゆるやかに左にカーブし、笠松トンネルに向かう

 
 
沢入(そうり)駅までは、進行方向に向かって右側の席に座っていたが、沢入駅から左側の席に移動した。坂東カーブを撮影しやすいというのもあるが、笠松トンネルを抜けた直後に、どうしても撮影したい場所があったからだ。撮影チャンスはほんの数秒。かなり緊張してトンネルを抜けるのを待つ。(こういうときに、カメラのバッテリーがきれたり、SDカードがいっぱいになったりすることがあるので油断ならない。事前チェックは入念に)

トンネルを抜けた瞬間から、沢入駅側に振り返り、立て続けにシャッターを切る。もちろん、トロッコ車両から身を乗り出すわけにはいかないので、相当変な格好で写真を撮っていたと思う。

左手に笠松トンネルの原向側(足尾側)の出口が写っている

 
上の写真で右側に写っている橋のようなものは、本川(ほんせん)取水堰という川から水を引き入れるための設備だ。この取水堰の左手にある山肌、少しえぐれているのがおわかりいただけるだろうか。

冒頭にのせた写真では白い沢入みかげの道がはっきりと見えるが、別角度から撮影した下の写真では逆コの字型に岩盤が削られている様子がよくわかる。

実はこの道、歴史は古い。明治20年代半ば、およそ130年も前に作られたものだ。現在残っているのは90mほどだが、今もこうして目にすることができる。 (横を通る国道122号からも眺められるが、道はすぐに足尾トンネルに入ってしまう)

上部に見える白いガードレールが国道122号

 
片側だけを掘りぬいたトンネルには、笠松片隧道と名前がついているが、通称「笠松片マンプ」と呼ばれている。「マンプ」とは聞きなれない単語だが、トンネルの方言である。(マンプの語源には諸説あり)
そういえば、関西地方に多く見られるねじりまんぽ(トンネル内の強度を高めるため煉瓦をねじったように積み上げた構造物)の「まんぽ」もトンネルのことを指す。遠く離れた地でも言葉というのは意外につながっているんだな。

 
下の衛星写真をみると、笠松トンネルと笠松片マンプの位置関係がよくわかるかもしれない。

赤色線:わたらせ渓谷鉄道が通る笠松トンネル 黄色線:笠松片マンプ  Googleマップより
3Dで沢入方向(桐生方向)を眺める 黄色線が笠松片マンプ    Googleマップより

 
 
笠松片マンプを通行する当時の写真が今でも残されている。下の写真がそれだ。かなり粗い画質だが、線路が敷かれ荷車をひく馬と先導する人の姿がわかるだろうか。この時代、足尾銅山の銅を搬出したり、必要な機材を運びこむのに重要な馬車鉄道として利用されていたのだ。

高さ約3m、幅約1.5~2mの片マンプは、馬車が通るにはいかにも狭い。そこで、川側に桟橋のように板をはり出し馬車鉄道として機能するようにしたようだ。

広報あしお 足尾の産業遺跡⑩ より

 
 

足尾銅山と輸送路の歴史

 
ここで足尾銅山に関わる輸送路の歴史についてふれておきたい。

足尾銅山は1890年前後(明治20年代)には、日本の銅生産の40%を占めるまでになっていた。銅山が山間に位置していたため、大量の物資をやりとりできる輸送路を確保することが至上命題の一つだった。

明治初期のころ、足尾地区における外部とつながる主要ルートは2つ。渡良瀬川に沿って沢入方向に南下するか、細尾峠を通って日光方向に北上するかである。いずれにしても、馬一頭がやっと通れるぐらいの道だったという。

沢入ー足尾ー日光の位置関係を表す地図    Googleマップより

 
 
こうした輸送路は、銅山が発展していくに伴い、さまざまな方法で強化されていった。

例えば日光への北上ルート。1890年(明治23年)に宇都宮から日光までの鉄道が開通したことで、1893年(明治26年)には細尾峠の足尾銅山出張所と日光駅の間に牛車鉄道が敷設された。正直なところ、馬車鉄道が各地にあったことは知っていたが、牛車鉄道が存在したことを恥ずかしながら知らなかった。驚きである。

岩田武様 所蔵

 
 
 
沢入方向への南下ルートも同様に強化され、足尾近隣他地区への輸送ルートを拡充しながら、1892年(明治25年)には、足尾から沢入までの軽便馬車鉄道が開通した(下図)。

 
 

「馬四〇〇輌、牛一二〇輌、手車二〇〇輌によって辛うじて物資を運搬しているが、荷馬車一二三輌が必要である。至急に軍隊の大砲を曳くような屈強な駄馬、一二三頭を買い入れてほしい」

広報あしお 足尾の産業遺跡⑩より

1888年(明治21年)に、足尾鉱山の鉱長から古河市兵衛(ふるかわいちべえ)にあてた手紙が残されており、 とにかく必死に輸送路を強化しようとする当時の様子をリアルにうかがい知ることができる。
(古河市兵衛は古河財閥の創業者で、1877年(明治10年)に足尾銅山を買収し、その後経営に参加)

その後も銅山は発展し続けたが、当時の足尾鉄道が1912年(大正元年)に、桐生~足尾間で足尾線を開通したことにより、翌年に原向~沢入間の馬車鉄道は廃止となった。

 

列車はゆっくりと笠松片マンプから離れていく。もう1度後ろを振り返り、130年前に開削された道を眺める。 馬車をひく馬の、砂利を踏みしめる不規則な音が、ガタンガタンと響く列車の音に重なって聞こえてくればいい、そんなことを考えながら耳をすませた。 

 
つづく

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