瀬戸大橋を通る電車から見える鍋島灯台、りっぱな職員宿舎も別の場所で健在

 

ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

 

到達:2023年2月
難易度:■■□□(初級)

 瀬戸大橋を走る電車から、灯台が見えるのをご存じだろうか。ちょっとした手間で、すぐ目の前まで行けるのだ。

 それが鍋島灯台(香川県坂出市)だ。

  

 

 初点灯は1872年(明治5年)。「日本の灯台の父」ブラントンの、しかもかなり初期の設計のものだ。もう150年も経っているが、いまだに現役の灯台として役目を果たしている。

 冒頭の写真は、上の写真の右に写る瀬戸大橋から撮ったものだ。JR瀬戸大橋線、岡山から高松・松山・高知に向かう快速・特急の左側の席にすわり、児島を発車して6分ちょっとで見えてくる(岡山に向かう上り電車ではよく見えない)。

 鍋島は灯台だけしかない小さな島で、まずはその隣にある与島(よしま)に行く必要がある。でもここには駅がない。

 

(国土地理院)

 

 電車が児島(本州側)の次にとまるのが、四国に渡ったあとの宇多津(松山・高知行き)か坂出(高松行き)なので、そこで降りてクルマで引き返す形になる(児島から行くこともできる)。

 坂出-児島間には路線バスも運行しているので、これを利用する手もある(1日5本程度)。

 瀬戸大橋は上が瀬戸中央自動車道、下がJR瀬戸大橋線、という2段構造になっている。坂出北ICまたは坂出ICから瀬戸中央自動車道に乗り、いま通ってきたJRと同じルートを逆方向に走って、与島(よしま)PAに降りる。

 

 

 与島PAにはフードコートや売店のほか、瀬戸内海の島々を眺められる展望台もあり、ちょっとした観光スポットになっている。このPAのいいところは、立ち寄ったあとに逆方向に引き返せることだ。ただし、往復分の通行料はとられる。

 与島PAを出て、与島の町中に行く道はあるのだが、島に関係のある車両しか侵入できない。路線バスもその道を通って町中に行くので、バスなら灯台までの歩く距離は短い。

 部外者なので、別の行き方をする必要がある。フードコートなどがある場所とは離れた、駐車場の南端にクルマを止め、ここから歩き出す。

 

 

 もうこの先はPAの敷地外だろう、というところにあるのが…。

 

 

 これ。柵がこわれたところからイノシシが出入りしているのかと思うようなところだ。

 

 

 左が「島民方面」。島民方面とは…? 下に写真付きで「鍋島灯台方面」とあるから、ちゃんと行けることはわかる。

 その先はこんな道だ。舗装されていて歩きやすいし、道に迷うことはない。

 

 

 瀬戸大橋をくぐり、PAとは島の反対側に行く。

 

 

 しばらく歩けば、家並みが見えてくる。

 

 

 集落の中に入った。中央にあるのは使われなくなった井戸だろう。同じ香川県の男木島でも見かけたが、水の確保に苦労するのはどこの島でも同じだ。

 

 

 家の中に入り込んでいるような申し訳ない気持ちになりながら、軒先をかすめるようにして道を進む。

 

 

 いくつか角を曲がりながら数分歩くと、ようやく海が見えてきた。

 

 

 左に曲がって、海岸に沿って歩く。

 

 

 そして左カーブを曲がると、先っちょがちょっと見えた!

 

 

 鍋島全体が姿を現した。たしかに鍋をひっくり返したような形だ。与島とは防波堤でつながっているので、歩いて行ける。ただ、灯台を建設した明治時代初期には防波堤はなかっただろう。

 

 

 防波堤は鍋島の先にもあり、その先端には与島港3号防波堤灯台がある。瀬戸大橋ができる前は、ここが与島の玄関口だったのではないかな。

 

 

 鍋島に向かって歩いていくと、上りの石段が見えてきた。

 

 

 結構きちんとした石段だ。防波堤と島の間に1枚のコンクリート板が渡されているが、この下は海面で、結構な高さがある。落ちないように気をつけて。

 

 

 石段の先に金網の扉があるが開いている。実は以前、年に1回程度の一般公開日以外は立ち入り禁止になっていたのだ。それが2021年7月に「当面の間、敷地を一般公開」することに変更された。

 金網扉の手前にある立て札に書いてあった「立入禁止」の文字にかぶせるように、「敷地立ち入りの際の注意事項」という掲示が張られている。公開の取りやめという事態にならないよう、鍋島に行ったときは荒らすようなことをしないでほしい。

 金網を過ぎても上りの石段が続く。手すりなどはなく、ロープが張られているだけなので、上りが苦しくてもよろけないように。

 

 

 そして、灯台の敷地に到着した。

 

 

 これが鍋島灯台。灯塔が低く、半円形の付属舎という、明治時代初期の灯台によくある形だ。禄剛埼灯台(石川県珠洲市)を小さくしたような感じ(建築時期は鍋島灯台の方が早いから、順序が逆だ)。

 

 

 灯籠の上部のさりげないデザインや、東西南北の文字が付いた風向計が、灯台の美しさを引き立たせている。やはりこの時代の灯台は味わい深い。

 

 

 敷地は平らで円形に近く、割と広い。ひっくり返した鍋の底、という感じだが、もともとの島の形なんだろうか。灯台は中央ではなくはじっこに建っている。

 当初は残りの場所にも建物があったのだ。灯台建設当時から1955年ごろまで使われた、灯台職員の宿舎(退息所と言う)だ。しかも、建物はなくなってしまったわけではなく、高松市の四国村ミウゼアムにちゃんと移築・保存されている。

 

 

 花崗岩に列柱という洋風の造りと、瓦屋根という和風の造りが混在している、なかなか味のある建物だ。

 室内もすごい。

 

 

 灯台と同様にブラントンが設計したので完全に洋式だ。ということは、当初外国人技師が住んでいたんだろうか。現在展示されている家具などが、日本人の灯台職員に変わってもずっと使い続けられていたかどうかはわからないが。

 少なくとも明治初期は、鍋島のこの敷地にピアノが置かれ、暖炉が使われていたのだろう。この場所で、150年前に暮らした人たちの生活を思い浮かべてみる。もちろん、向こう側に見える瀬戸大橋はなかったわけだが。

 

 

 なお、四国村ミウゼアム(鍋島灯台退息所の隣にある部埼灯台退息所の室内)では、明治期の灯台を説明する動画が流されていて、退息所があったときの鍋島の様子(航空写真)もちらっと映る。

 この場をあとにする前に、立入禁止の札がかかったところをちょっとのぞいてみよう。

 

 

 おそらく、与島港3号防波堤灯台に降りていく道だろう。笹藪の向こうにギリギリ先端が見えた。

 

 

 150年前につくられた建造物である灯台と職員宿舎。別々の場所になってしまったが、どちらも健在で、明治初期の面影を間近で見ることができる。それは、灯台を今でも維持している人たち、灯台の敷地の開放を決めた人たち、職員宿舎を移設した人たち、さまざまな人々のおかげなのだ。

 

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