静けさと草むらに囲まれた葛登支岬灯台、難易度は高くないが到達すれば大きな満足感が

 

ナギヒコさんから寄稿していただいた記事です

到達:2025年10月
難易度:■■□□(初級)

めったに人が来ないだろう場所、草に覆われた道を歩くと10分ほどで現れる葛登支岬灯台(かっとしみさきとうだい、北海道北斗市)は、草のなびく音しかしない静かな場所に立っている。

昔ながらのデザインが、抜群のやすらぎを与えてくれる。到達する難易度はそれほど高くはないが、到達したときの満足感はとても大きい。

(国土地理院)

函館から国道229号をクルマで南西に向かい30分ほどで、葛登支岬灯台ののぼり口に着く。目標物があまりないので、ちょっと見逃しやすい。

その先は草におおわれていて、なんか道がありそう、というぐらいだ。

「函館海上保安部交通課」の手づくりっぽい案内板があり、その下にはプランターに植えた花もある。忘れ去られたわけではないようだ。

(国土地理院)

歴年のGoogleストリートビュー6枚を見ると、もう少し草が少ないことが多い。草刈りがされているのか、自然に枯れたのかはよくわからないが。

道ははっきりわかるので、草を踏みしめながら緩い上り坂をのぼっていく。

左下には国道があるのだが、草で見えないし、クルマの音はあまり聞こえない。右には道南いさりび鉄道が通っているのだが、どこにあるか、まったく見えない(非電化なので架線がないから余計わからない)。

そして、木の間を抜けると、おお、灯台の上部が見えた。

見えたとはいえ、まだまだ先だ。

見渡す限り草むらと低木と、灯台だけ。自宅の周りでは望めない風景の中、草を踏みしめ歩いていく。

歩き始めて10分、葛登支岬灯台に到着。

1885年(明治18年)12月初点灯。風向計、その下の球体(冠蓋:かんがいというらしい)、手すり(?)の付いた灯籠屋根、窓硝子(玻璃板:はりばんというらしい)、バルコニー、その下の持ち送り(バルコニーを支える部材)など、非常に典型的なスタイルが、好ましい印象だ。

灯器は典型的なフレネルレンズではなく、円筒形の不動レンズだ(詳細は後述する)。

門は閉め切られていて、敷地内には入れない。付属舎の出入扉と思われるものがあるが、銘板は見えない。やけに大きく、角張った付属舎で、これは後年に建てられたのではないかと思う。

人はおろか、動物の気配もない静かな空間(この近辺で3カ月以内にヒグマの目撃情報がないことは確認した)。

のぼり道はそれほどキツくはないし、時間も短い。探検度はあまり高くないが、到達したときの満足感はとても高い灯台だった。

帰り道で気づいたが、坂の途中から函館の山(写真右)と街(写真左)が見えた。函館湾の入口に立っているんだということがよくわかる。

のぼり口にある案内板をちゃんと読んだら、興味深いことがいろいろと書かれていた。資料的な価値もあるので、文字を転記しておこう。

所在地 北斗市
初点灯 1885(明治18)年12月15日
塗色 白色
灯質 明暗白光 明6秒暗4秒
光達距離 17.5海里(32km)

(1)灯台設置の背景
函館は我が国が鎖国を解いた時から貿易港として発展を始め、江戸条約で本牧(横浜)とともに函館に灯船を置くことが決められました。

函館灯船はイギリス人技師RHブラントンの指導で日本人船大工の手で造られた木造西洋型船で、長さ20m、約130トンの船「戒礁丸」(かいしょうまる)と命名されました。

「戒礁丸」は明治4年4月14日、函館弁天岬(現函館どっく近く)の北方沖に設置され、その後大正4年まで灯りを点していました。

明治6年には青森、函館間の定期航路が開かれ、翌7年には東京・函館間の定期航路が始まりましたが、灯船だけでは港湾認知の標識として小さすぎる(光達距離1海里)ため、弁天岬と相対する葛登支岬に灯台を設置することとなりました。

(2)灯台建設
所管事務所:旧葛登支岬灯台
明治17年:灯台建設(木造八角形灯塔)
明治18年12月15日:初点灯、石油灯

【レンズ】
レンズはフランスパビュー社製の第三等大型弧状不動12面レンズで明治18年初点以来現役として使用されています。レンズの屈折を利用して明暗光を発する特殊な構造になっています。

灯台は、まだLEDに替えられていない電球光源の場合、フレネルレンズを回転させて光の点滅を表現しているものが多い。不動レンズはそれとは異なり、電球をオン/オフすることで点滅を表現する。

葛登支岬灯台は日本で初めて後者のタイプを採用したのだが、不動レンズにもかかわらず、レンズが回転するらしい(不動まゆう著「愛しの灯台100」による)。理由はわからない。

 

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