北陸新幹線の全線開通により、1997年(平成9年)にJR信越線の横川~軽井沢の区間が廃止になった。その廃線跡を利用して、横川駅近くの2.6km程の区間にトロッコ列車が走っている。
トロッコ列車に乗り込み、のんびりと車窓を眺めていると、やがて前方に堅牢なレンガ造りの建物が見えてくる。
1912年(明治45年)に建てられた旧丸山変電所である。
旧丸山変電所は切妻屋根の建物が2連あり、上の写真で手前に建つのが旧丸山変電所蓄電池室、その奥にあるのが旧丸山変電所機械室だ。
勾配のきつい難所として知られる碓氷峠を含むこの区間に、蒸気機関車による鉄道が開通したのは1893年(明治26年)。国家プロジェクトともいえる鉄道開通であったが、わずか11.2kmの区間に26ものトンネルが続き、トンネル内に充満する蒸気機関車のばい煙により、乗務員の健康被害が深刻な問題となっていた。
こうした問題を解決するため、日本初の幹線電化による電気機関車が登場する。電力供給のために、火力発電所や変電所が同時期に作られた。旧丸山変電所は、その時に作られた変電所の一つである。
蓄電池室には312個の蓄電池が並び、急坂を上る機関車に電力を供給した。充電中には大量の水素ガスや硫酸雲霧が発生するため、換気が必須となる。このため、蓄電池室には十分な喚起できる窓が多くあり、屋根には通風口のほか、天窓のようなものが確認できる。
蓄電室と隣にある機械室の建物は1mほどの段差がある。この段差を見れば、横川から軽井沢へ上り勾配が続いていることがよくわかる。
機械室には回転変流機と変圧器が2基ずつあり、横川火力発電所から送電された交流6600Vを直流650Vに変換していたとのこと。
機械室と蓄電池室の屋根を見比べると、蓄電池室には天窓があるだけでなく通風口の数も多い。それだけ換気に気を付けていたことがわかる。
掲載した写真には写っていないが、2連の建物はよく似ているが側面のデザインなど微妙に異なり、明治から大正にかけてレンガ建築が盛んだった頃の成熟した趣が感じられる。
建物の壁は長いレンガと短いレンガを交互に積み上げたイギリス積みと呼ばれるもの。旧丸山変電所だけでなく碓氷峠鉄道施設群(赤煉瓦建造物)に使われた多くのレンガは、現在の深谷市にある日本煉瓦製造で作られたものだ。
ちなみに、旧丸山変電所は20年ほど前に外観をリニューアルしている。それ以前は特に屋根などがひどく傷み、まさに廃墟という雰囲気だった。貴重な当時の様子は、こちらのサイトに掲載されている。
最後に、こちらの古い写真をご覧いただきたい。
近代化産業遺産の象徴のようなこの建物は、横川火力発電所である。大きな2つの煙突に、おそらくレンガ造りと思われるひときわ大きな建物からは、時代を背負う熱量のようなものが伝わってくる。
今は取り壊されて遺構のかけらも見ることはできないが、100年以上前、この横川火力発電所から地下ケーブルを敷き丸山変電所に送電していたという事実がここにある。