到達:2024年4月
難易度:■■■□(中級)(3代合計で)
紀伊日ノ御埼灯台(きいひのみさきとうだい、和歌山県日高町)ほど、深い歴史がある灯台も少ないだろう。2回の移転を経て、現在あるのは3代目だ。
現灯台は探検度ゼロだが、2つの灯台跡も含めると、難易度は一気に中級まで上がる。
紀伊日ノ御埼灯台がある日ノ御埼は、紀伊半島のほぼ最西端にあり、紀伊水道に面している。向かいは徳島県阿南市付近。大阪湾と太平洋を結ぶ重要な海域だ。徳島側には蒲生田岬と伊島に、向き合うように灯台がある。
この位置は軍事上でも大きな意味を持つ。以下ではその一端がチラホラ見え隠れする。
紀伊日ノ御埼灯台までは、御坊市街(御坊駅、阪和自動車道御坊インター、国道42号など)からクルマで20分ぐらい。美浜町の自衛隊和歌山駐屯地を過ぎると平地が終わり、山が海岸まで迫ってくる。三尾地区をすぎ、海沿いの県道24号から分かれると山道になる。
そのあとまず出会うのがこの分岐だ。左は「この先、行き止まり」。
以前、灯台付近は周回道路になっていたのだが、いまはがけ崩れで通行止めだ。次の国土地理院の地図(2024年5月時点)ではまだ県道の黄色が塗られているのだが。
がけ崩れ箇所をGoogleアースで見たらこんな感じだった。これはもうどうしようもないな。無理に周回道路にする必要はないし、この通行止め区間は今後も修復されないままだろう。
分岐を右に行くと、今度は3方向に道が分かれている。
右は、日の岬パークという公園や国民宿舎に通じているのだが、何年か前にそれぞれ閉鎖され、廃墟になっている。
真ん中の道の先は広い駐車場だ。上記の施設のためのものと思われる。
そして、灯台へは左の道をやや下りながら進む。すると「日ノ御埼灯台(P)」という小さな案内板がある。この左にはクルマを2、3台止められる。
そこから100mぐらい歩くと、紀伊日ノ御埼灯台が真正面に現れた。道路のすぐ脇で、探検度はゼロ。ただし、クルマを止めたり転回したりする余地はほとんどない。
灯塔も敷地もなにもかもが新しくてピカピカだ。2017年3月にこの場所に移転し、初点灯したばかりだからだ。
この先は紀伊水道。対岸の徳島が見えることはあるんだろうか。夜には伊島灯台や蒲生田岬灯台の光が見えるかも。
灯塔は八角形、表面は石造を思わせる複雑な模様が刻まれていて、シンプルな形ながらもしゃれた雰囲気を持っている。明治期の灯台とは別の魅力がある。
1895年(明治28年)初点灯の初代、1951年(昭和26年)初点灯の2代目、それぞれの銘板もうやうやしく掲示されていた。紀伊日ノ御埼灯台は現在3代目、場所も変えながら建て直された、苦難の歴史を持つ灯台なのだ。
以下、灯台の歴史に関しては、主に現地案内板とWikipediaのページ(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E4%BC%8A%E6%97%A5%E3%83%8E%E5%BE%A1%E5%9F%BC%E7%81%AF%E5%8F%B0)を参考にした。
では、まず2代目跡を確認しに行こう。日の岬パーク跡に行く道など、3つに道が分かれていた場所のすぐそばに、2代目灯台跡に続いている道(の痕跡)がある。
この道の先は、「日ノ御埼灯台(P)」という案内板がある駐車場なのだ。そしてさらに進むと…。
少し開けた場所に出る。
ここが、2代目灯台があった場所だ。1945年(昭和20年)に空襲で破壊された初代灯台に代わり、この場所に建てられて1951年に初点灯した。その前ここには海軍の施設があったようだ。
2017年の廃止後に撤去されて、いまはこんな状態になっている。「なにかあった」ことはわかるが、灯台を思わせるものはない。
なぜ3代目に移転・改築されたのかは、このへんにヒントがある。
通路のコンクリート舗装がずれ、亀裂が入っている。
冒頭のがけ崩れの画像を思い出してほしい。地すべりが起きて、県道の周回道路部分が崩れただけではなく、その上にあった2代目灯台の敷地も危険な状態になってしまったのだ。
灯台自体に問題があったのではなく、敷地に問題が起こったため、別の場所に新たに3代目灯台を作らざるを得なかったのだ。
では、初代はどこにあったのか。初代灯台跡を見るには、3代目灯台のさらに先に行く。通りすぎてから振り返ったときの3代目灯台がこれだ。この角度から見るのが一番カッコいいかも。
道の先には、防衛省の施設がある。海上自衛隊阪神基地隊紀伊警備所というところで、1975年に開所、2013年に閉所された。
なぜここに海上自衛隊の施設があるかといえば、紀伊水道を警備するためだ。つまり、日ノ御埼は戦後ずいぶん経った後も、海上軍事的に重要な場所と認識されていたということだ。
この建物を回り込んだ先は通行止め。さっきの通行止めの反対側に来たのだ。ここは駐車や転回がある程度できる。
ここに初代灯台跡への入口がある。
右の案内板に、初代灯台の歴史が書いてある。1945年(昭和20年)に2度の空襲を受け、炎上崩壊したということだ。
その後同じ年には、灯台長の妻子3人が赤痢で亡くなるという悲劇も起きている(3代目灯台の近くに案内板などがある)。
そのような歴史を持った初代灯台跡、どうなっているのかを見にいこう。
ときたま訪れる人がいるのか、それとも釣り人か。下り道はまあまあはっきりしている。
と、右も左も道っぽいところに出てしまった。先達のみなさんの記事を必死に思い出そうとするが、以前に読んだだけなので忘れてしまった。
ぼんやりした記憶では「右」だったような気がするので、ひとまず右へ。しばらく行くと、金網フェンスが見えてきた。そういえば、金網フェンスのことが書いてあったはず。
フェンスに突き当たって、左の下る方へ。
道には古そうな石の階段がある。この道で間違いない。
そして石段が現れた。
石段を上って、初代灯台跡に到着。行き止まりのところにクルマをとめてから10分ぐらいか。
レンガ塀に囲まれた敷地は割と広く、灯台だけでなく、官舎もあったのかもしれない。
炎上したという灯台の残骸のようなものはないが(解体・撤去されたのだろう)、瓦や陶器の破片はかなり散らばっている。
案内板に「数カ所にわたって機銃掃射の弾痕がのこり」とあったが、これとかがそうなんだろうか。
斜面に敷地を造成したので、レンガ塀の反対側は、しっかりした石垣が組まれている。「明治時代の仕事」という感じだ(初点灯は明治28年)。
灯台が崩壊した1945年から80年近くが経った。木の陰になっているせいか、草がほとんど生えておらず、あまり苦もなく歩き回れるし、敷地はまだ当時の様子がうかがえる状態だ。
明るい日差しのもと、コンクリートの路面だけが残っていた2代目灯台跡。それに比べると初代灯台跡はもっと秘密めいた場所に思える。とはいえ、陰湿な感じはしない。
跡形もなく撤去されるのでもなく、植物に飲み込まれてしまうのでもなく、取り残されながらもゆっくりと時間を刻んでいる、珍しい場所だと思う。
奥に、敷地の外に出られる場所があった。右の塀は、レンガ塀をコンクリートで塗り固めたように見える。
左のレンガ塀、上から4層目に注目してほしい。レンガの向きを45度ずらして積んでいる。明治時代(おそらくそうだと思うが)の建造物に込められた細かいデザインの工夫が、ここにも現れている。
階段を下りたところ。この階段はさすがに明治のものではないだろう。
反対側には廃屋があった。明らかに終戦後(灯台廃止後)に建てられたもので、20~30年前まで人が住んでいたように見える。灯台敷地からの階段は、この家のために作ったものなのだろうか。
そろそろ現代に引き返そう。金網フェンスまで戻ったあたりで、来るときには気づかなかったものが目に入った。斜面の一部を削って、ちょっとしたスペースを作っている。なにかものを置いていたのだろうか。
さらに上り、入口近くにはコンクリートの壁で囲まれている区画もあった。水を貯めていたのだろうか。それとも軍事的な設備があったのだろうか。
この一帯、灯台だけでなく、思ったよりもいろいろなものがあって、よく調べればほかにも発見できるような気がする。主に海軍や海上自衛隊関連のものなのではないかと思うのだが、どうだろうか。
観光施設が廃止され、海上自衛隊の施設も閉所され、このあたりに来る目的は灯台だけになってしまった。この日はほかに数台、バイクやクルマで灯台を見に来たような人がいたが、今後10年、20年経ち、そのころも道路が維持されているかどうか、ちょっと気になるところだ。