先日、岩手県を訪問した。岩手には何度か行っているが、盛岡に降り立つのは初めてだ。古い橋好きの私としては、盛岡に来たならば「開運橋」を見に行くのはマストである。
とまあそんな肩肘はらなくても、盛岡駅からの人の流れが開運橋方向にあり、気が付けば吸い込まれるように橋を渡っているといった感じではある。
開運橋の下を流れるのは、1級河川の北上川。先の地図でいえば、上(北)が上流側、下(南)が下流側になる。
現在の開運橋が架設されたのは1953年(昭和28年)、橋長は82.25m、幅11.5mの車道に2.5mの歩道が両サイドについている。
下路式ランガートラス(支間60m)1連と支間10mのコンクリート桁2連で構成されている。
開運橋を渡り、左岸側にやってきた。
車はもちろん、多くの人の流れがある。橋が人々の生活の一部となっている風景というのは、いいものだなと思う。
実は、現在の開運橋は三代目だ。
初代開運橋が架けられたのは130年以上も前の1890年(明治23年)。橋長90m、幅員8.3mの木橋で、盛岡駅開業にあわせてのものだった。
明治から昭和初期にかけて架けられた古い橋を追っていると、土地の名士が私財を投げ打って・・という話をよく聞く。(橋・鉄道・用水路開発などは地元民の生活に直結する重要なインフラだったからだろう)この開運橋も同じように、当時の岩手県知事らが中心となり私財を投じて架設したものだ。
悲願の木橋は、(これも他の地域でよく聞く話だが)たびたび水害被害に悩まされことにより、1917年(大正6年)にプラットトラスの鋼橋に架け替えられている。
二代目開運橋の橋門構(きょうもんこう)には、華やかな橋銘板が掲げられ、いかにも大正時代らしい意匠のものだった。
岩手の詩人、宮沢賢治がこの二代目を詠んだ短歌がある。
そら青く 開うんばしの せとものの
らむぷゆかしき 冬をもたらす
上の写真ではわかりにくいので、下の開運橋の絵葉書をご覧いただきたい。高さのある親柱らしきものに複数のランプが設置されている(緑矢印)。賢治が詠んだ「せともののらむぷ」とは、この瀬戸物製の油壷付きランプのことなのだ。
また橋銘板の上にさらに繊細な装飾が施されている様子が、おぼろげながら確認できる。
そしてもう1つ、青と黄の矢印の先に注目していただきたい。
地元の方ならすぐおわかりになるだろうが、この印、盛岡市の市章にそっくりだ。市のwebページには以下のような記述がある。
市章としての制定時期ははっきりしませんが、明治39年(1906年)に定められた「市吏員用提灯其ノ他ノ徽章ノ件」という規定に、職員用のちょうちんなどにこの紋章を使うようにと定められています。
盛岡市公式サイト 市章と市のシンボル より
二代目が竣工したのが大正6年と考えると、開運橋に市章を刻もうと考えたのは自然の流れなのかもしれない。
さて、話を現在の三代目開運橋に戻そう。
調べた限り、今の開運橋は質実剛健といった作りで、左岸側の柱に橋銘板が取り付けられているのみ。でもこの雰囲気が、また味なのである。
開運橋から上流方向には、晴れていれば岩手山がよく見える。
いまでこそ東北新幹線で関東から盛岡まではあっという間だが、昭和の時代、遠い北の地に行くといった感は今よりずっと強かっただろう。
「盛岡へ転勤してきた人が開運橋を渡りながら、遠く離れた所まで来てしまったと涙を流す」という心情もまああったのかもしれない。そして時が流れ、「再び命を受けて盛岡を離れる際には、今度は去り難くて開運橋の袂から岩手山を見上げて涙を流す」とも言われたという。
開運橋が二度泣き橋と呼ばれる所以であり、寒冷でありながらもこの地の温かさが伝わるエピソードである。
開運橋は、期間限定のライトアップが行われている。
ちょうど訪問した日は6月5日の日曜日、世界環境デーにあたる日だったため、1日限定のグリーンライトアップが実施されるとのこと。
これは見ねばなるまい・・と、ライトアップ開始の19時まで、飲食店で食事をしながら待つことにした。
正直に言えば、緑にライトアップされた開運橋は、思ったより地味だった 笑
しかし完全に夜の帳がおり橋の近くまで寄ってみると、なかなかの味わいだった。いや、本当に。
ライトアップされた橋をゆっくり渡り、再び橋を眺めてみる。川面に映る色とりどりの光跡は、ちょっと上海の外灘(バンド)っぽい雰囲気もある。
橋は人が行き交うためのものだ。古来から人は川に橋を架け、生活圏を広げながら暮らしてきた。
橋を渡ったまま帰ってこない人もいただろう。別れの場としてのイメージが橋にはオーバーラップする。しかし、なぜだかこの橋は違う気がする。旅立つ人たちも、いずれは必ず再びこの橋を渡り戻ってくるような気がするのだ。
ホームスイートホームのような場所、それが開運橋なのである。