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前回は明治時代に建設された旧浦村鉄橋が架けられていた場所を実際に訪れた。鉄橋は老朽化のため1952年(昭和27年)に撤去されたのは、前回もご紹介した通り。
旧浦村鉄橋はイギリスのHandy Side社製で、6連の下路式プラットトラス橋だった。撤去時に、両端の1連ずつと、中央の4連に3分割され、道路橋として改造・再利用されることになった。
特に中央の4連のトラスは、幅を広げるなどの構造を改造・追加増設し、1959年(昭和34年)に初代の越路(こしじ)橋として以前架けられていた旧浦村鉄橋の上流に架設された。その後、長岡市の重要な幹線道路としての役割を担っていたが、1998年(平成10年)に2代目の越路橋が架け替えられタイミングで、引退となった。長年の功績を表して越路橋の一部は保存されることが決まり、近くの公園に旧越路橋として設置されることになったのだ。
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旧越路橋を目指して南下する
現在いるのは、上の地図A⑭の場所。ここから信濃川の左岸、堤防沿いに歩いて行くことにする。
南方向に歩いて行くと、2代目越路橋の手前に、赤い水門が見える。小さな支流が信濃川と合流する直前にある水門で、小さいながら魚道(魚の通る道)も設置されている。
水門を通り過ぎると、すぐ先ほど渡ってきた2代目越路橋が迫ってくる。
これから見に行く旧越路橋は、この場所に架設されていたんだなぁと改めて思う。
堤防を歩いていると、お散歩途中のわんこと何度も目が合う。恋の始まりだろうか。
やがて、赤い橋のようなものが見えてくる。12月なので芝も茶色になっていて、どこからどこまでが公園なのかはっきりしないが、おそらく橋の周囲が越路河川公園なのだろう。
土木遺産に認定
公園内の小さな池に浮かぶように設置された旧越路橋。赤い帽子の男性が、ゆっくりと手押し車を押しながら渡っていく。
旧浦村鉄橋を解体し別の形で現存している3つの橋は、2019年(令和元年)に土木学会選奨土木遺産に認定されている。この旧越路橋もその1つだ。
鉄道橋だった旧浦村鉄橋は幅が3.6mで、幹線の道路橋として使うには狭い。そこで幅を6mに拡張して越路橋として架設されていた。このため、この後に訪問する予定の岩田橋・不動沢橋(ともに旧浦村鉄橋を解体・移設した橋)よりもずいぶん幅広く感じる。
今は静かな落ち着きをみせているこのあたり一帯も、春になり新緑萌える季節となれば、古くて赤い橋もまた若やいだ雰囲気を見せるのかもしれない。
公園の西側に、何かの工場があり、稼働していた。
トロッコのようなものがジェットコースターのように垂直落下していく様子が面白い。
来迎寺駅まで歩いて行こうか
旧越路橋を訪問した後の予定はこうだ。まず信越本線が通る場所まで引き返し、最初に降りた前川駅の次、来迎寺駅まで歩く。その後、来迎寺から越後岩塚まで列車で移動。さらにそこから、徒歩で、岩田橋と不動沢橋を目指すことになる。ちょっと今回は歩く距離が長い。
時刻を確認すると、ちょうど上り列車が信濃川橋梁を通過する時刻に間に合うかもしれない。急いで信濃川橋梁のたもとまで戻ることにした(地図A⑱→⑭へ)。
急いでとはいっても、足は遅いし少し走れば息も切れる。しかも、ルート選択を間違えて堤防の側面を走ってしまった(上の黄色矢印)。なぜ赤矢印の歩きやすい道を行かなかったのか、今でも理由がわからない(そういう「なぜ?」ということが私の旅の場合ちょくちょく起こる)。
最後は、ぜーぜー言いながら走ったが、、、、、
無情にも列車は私の目の前を通過していった。
あぁ、鉄橋から列車が出てくるところを撮りたかったなぁ。
来迎寺駅に到着
そんなこんなで、なんとか来迎寺駅に到着。北越鉄道の時代からある駅である。以前は、魚沼線・越後交通長岡線などが乗り入れていたがいずれも廃線となり、今は業務委託駅となっている。
来迎寺駅を訪問することがあれば、ぜひ見ていただきたいのがホームにある古い電柱だ。行く先表示のホーロー?の表示板が、レトロすぎて泣ける。どのくらい前のものなのか気になるところ。
これまでなんとかもっていたお天気だが、来迎寺駅でついに大粒の雨が降り出した。まずい。まずいよ。
なんたって、これからくねくねと6~7km歩くんだから。
そんなことを思いながら、下り列車を待つ昼下がりだった。
明治に作られた鉄道橋は解体され、それぞれの役割で地域にとけこんでいる様子をご覧ください
「田園風景の中で圧倒的な存在感、浦村鉄橋の分身たち」(JBpress)