ナギヒコの灯台到達記:立石岬灯台
立石岬灯台(たていしみさきとうだい、福井県敦賀市)
到達:2020年11月
難易度:■■■□(中級)
この灯台はカッコイイ!
2020年のある日、Webサイトに掲載されていた写真を見て、一気に魅了された。そしてその年の11月、都合よく福井県へ行く用事ができた。「ついでに行けるじゃないか」
とくに灯台に興味はなかったのに、「灯台を見る」ためにでかける、ということをした初めての灯台が立石岬灯台(たていしみさきとうだい、福井県敦賀市)だった。いわば灯台クエストの“原点”と言える。
よく晴れた秋の日。気温は13度ぐらい。立石漁港にクルマをとめ歩き出す。堤防の左端と家の間にある道を進んでいく。

しばらくは海沿いの岩場を歩く。

数分でのぼり口に到着。ここから左に曲がる。

いよいよ森の中をのぼっていく。

石の段が敷き詰めてあるが、加工した石ではないから、歩きやすいかどうかは微妙なところだ。しかし、これだけの数の石を揃えて置いた労力には頭が下がる。灯台建設時のものだろうか。

山側(写真右)の水を谷側(写真左)に流す溝もところどころにある。しっかり作られた山道だ。

ひたすら急な上りが続き、息が切れる。木立の中に響くのは自分がハアハアいう音だけ。この静けさは染み入る。

のぼりの道になってから10分弱。先が見えず、いつ着くかがまったくわからないので苦しさが増す。
と、「100m先」という標識を発見! 「もう少しだ」という期待感と「まだ100mもあるのか」というウンザリ感の両方が湧いてきた。

実はこの標識、約400mあるのぼり道に50mぐらいの間隔で付いていたのだ(下りのときに確認した、しかも3枚前の写真にも実は写っていた)。足下しか見る余裕がなかったのでこれまで気づかなかっただけだった。
そしてついにチラッと見えた! この瞬間のほうが、のぼり切ったときよりもうれしかったぐらいだ。この気持ちが、その後の「灯台クエスト」の原動力となるものだったのだ。

歩き始めて約20分、立石岬灯台にようやくたどり着いた。

のぼってきた方向を振り返る。標高約120mをまっすぐのぼってきたのだ。敦賀市街はこの右方向にある。

立石岬灯台があるのは福井県敦賀半島の先端。日本海から敦賀湾に入る船を導くために、140年間ずっと現役で働き続けている。

塔高は約8m。コンパクトで均整が取れていてカッコイイ。日本一だと思う。魅力の一つが、塔の下部にある「付属舎」が円形であることだ。

明治初期につくられた灯台は、イギリス人技師リチャード・ブラントン自身が設計したもの(六連島灯台、部埼灯台、鍋島灯台、江埼灯台など)も、ブラントンがイギリスに帰国後に日本人が設計したもの(禄剛埼灯台、美保関灯台など)も、付属舎が半円形のものが多数を占め、正円形のものは(おそらく)ない。
一方、小佐木島灯台、大久野島灯台(四国村に保存されている初代)、中ノ鼻灯台などは円形ではあるものの、幅は狭く灯塔とほぼ一体になっていて、「付属舎」と言っていいかどうか疑問なものだ。
つまり、ほかにはほとんどない、ユニークな形である点に大きな魅力を感じる。
もう一つの特徴が、設計者だ。
敷地内の案内板、紹介のWebサイトやブログ、写真集などには「日本人だけで設計・建造された初の灯台」のように書かれている(表現は少しずつ違う)。
日本人が計画し、設計と建設を行った
初めて日本人のみによる設計、施工で建設されました
日本人だけで設計建設した最初の洋風灯台
日本人技師により手がけられた最初期の洋式灯台
西洋の灯台建設技術を学んだ日本人技術者によって建てられた
海上保安庁の案内板には「日本人の技術によって建設された」とある。

ところがその根拠となる文献がなかなか見つからない。2次情報どうしで引用しあっている感じがする。
『日本燈台史』(海上保安庁燈台部編集、社団法人燈光会発行、1969年6月)には次のようなことが書かれている。
西洋式の灯台は、明治時代初期からたくさん建てられた。鎖国が終わり、船を安全に航行させたいという外国の要求が強かったためだ。その設計・施工技術の必要性から呼ばれたのが英国人技師のリチャード・ヘンリー・ブラントンだ。ブラントンは慶應4年(明治元年)から明治9年までの8年間で、築造方として26の灯台を建設した。そしてジェームス・マクリッチがブラントンの後任として明治5年から明治12年まで滞在した。
明治10年を過ぎると、設計・施工・灯火管理などの技術を日本人が身に付けていったため、外国人技師は次第に解雇されていった。マクリッチが明治12年12月、職工長兼機械監督ビックルストンが明治13年6月、冶工監督方ピルルス(ピールス)が明治13年9月に日本を去り、建設および機器製作はすべて日本人が行うようになった。さらに、燈明番教授方のチャルソンが明治14年5月に日本を去ると、雇われた外国人はいなくなった。
立石岬灯台は建設開始が明治13年(1880年)4月、完成が明治14年(1881年)6月、初点灯が同年7月なので、ちょうどその時期にあたる。
しかし『日本燈台史』には(表中の一覧にある以外)立石岬灯台が「日本人のみで初」かどうかの記述はない。
ようやく見つけたのが、燈光会(現在は公益社団法人)が会員向けに発行する会誌「燈光」だ。平成16年12月号に「明治の灯台の話(2) 立石埼灯台」という連載記事が載っている。著者は「灯台研究生」という匿名。
同記事によると、立石岬灯台建設場所の視察が行われたのは明治11年6月。そのときの灯台巡視船明治丸にはマクリッチも乗っていたようだ。
「マクリッチがいたときに、灯台の等級や建設費用が記された建設伺い書が出されていたこと、彼がいたころすでに2回も実測され、サイズは違うものの、小型の灯台で官舎も含まれた図面も書かれていたことから」、日本人だけで設計・建造されたという記述は再度検討すべきではないかと書いている。
さらに同記事が指摘する、灯台の入口上部に掲げられている銘板(記念額)も注目点だ。立石岬灯台の銘板には「ILLUMINATED 20TH JULY 1881 明治十四年七月二十日初点」と英文(西暦)と和文(和暦)の両方が書かれている。

ところが次に建てられた禄剛崎灯台(明治16年7月初点灯)では「明治十六年七月十日初点灯」と和文だけになっていて、それ以降も同様なのだ。

これらのようないくつかの理由から、記事は「マクリッチが灯台築造方として日本を離れる直前まで携わった最後の灯台が、この立石埼であったと、記録から判断されます」と書いている。
“最初”か“最後”か。これ以上突き詰めてもそれほど意味はないだろう。それよりも、明治初期、10年あまりで西洋式灯台を設計・建造する技術を日本人が習得したこと、さらにその成果物がいまなお現役で活躍していること――立石岬灯台の前に立つとこのような“時の流れ”を強く感じた。
敷地内は灯台があるだけで、広々とした空間があるだけだ。

これは逆方向、門の外から見た風景。門柱、周囲の石積みと柵、それに日時計(電柱の手前)ぐらいしか、当初からのものは残っていない。

門柱と石積み。大変手をかけたつくりになっている。

この空き地には、灯台守(職員)の官舎(退息所)があった。もう一つ別の案内板に昔の写真(『福井県敦賀郡名所古蹟写真帖』(明治42年)より)が載っている。

明治時代、立石岬灯台は「職員2人、水夫1人、小使1人、傭船1艘」という体制だった。その後灯火が石油灯、ガス灯、電灯と変わり、点灯や監視が自動でできるようになったため、立石岬灯台は1961年(昭和36年)に無人になった。
この灯台で唯一残念なのは、周囲の景色だ。周囲の灌木で、敷地内ではほとんど海が見えない。周囲にある石積みにのぼって、ようやく日本海が見えた。

山頂にはほかに見るものもないので、そろそろ戻ろう。帰りのくだり道で気をつけてみたら、何カ所にも「立石岬灯台 ×m先」の標識があった。これが目に入らないほど、のぼりに集中していたということだろう。

漁港に戻る手前で、畑仕事をしている地元の女性に会った。以前灯台に灯台守の2家族が住んでいたことを覚えているそうだ。「その家の小学生は毎日山を下りてきて、私たちと同じ小学校に通っていましたよ。私たちも小さいころはよく灯台まで登ったものです。帰りなんか5分ぐらいで駆け下りてきました」。子どもはさすがだ。
設備や管理体制は建造当時からだいぶ変わったが、石でできた灯台の主要部分は明治時代のままだ。このカッコイイ造形が今後も長く保たれてほしいと思う。

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